1933年の軍法会議にて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/23 17:46 UTC 版)
「ノーマン・ベイリー=スチュワート」の記事における「1933年の軍法会議にて」の解説
1933年春、チェルシー兵営(英語版)で開かれた軍法会議において、ベイリー=スチュワートは外国勢力に軍事機密を漏洩させたとして公職守秘法違反の容疑で裁かれた。当時はまだ戦争が始まっていなかったこともあり死刑こそ免れたものの、10つの容疑で有罪判決を受けた末に刑務所での懲役140年が言い渡された。 軍法会議によれば、彼は1931年に休暇でドイツを訪れた折にドイツ人女性と恋に落ち、ロンドンの独総領事に宛てて独国籍を得たいという手紙を書いたとされる。手紙に返事は無かったが、彼は休暇の許可を得ずにベルリンを訪れ、ドイツ外務省に電話を入れて英語話者を出してくれと要望した。その後、ブランデンブルク門の下でミューラー少佐を名乗る人物と接触し、ドイツのスパイとなることに合意したという。 彼は参謀学校の受験に備えた勉強という口実を使って、アルダーショット軍事図書館から試作段階のインデペンデント重戦車や新型自動小銃などの写真や仕様書、部隊編成などの情報を持ちだした。これらの情報は「オットー・ヴァルデマー青果店」(Otto Waldemar Obst)なる相手へ秘密裏に手渡され、これに対してベイリー=スチュワートは「マリー=ルイーゼ」(Marie-Luise)の署名がある2通の手紙を受け取った。この手紙には5ポンド紙幣10枚、10ポンド紙幣4枚が添付されていた。また、連絡員との接触を行う為に何度かオランダへ出向いていたことも判明している。MI5の記録によれば、「青果店」はミューラー少佐のコードネームであったとされる。また、ベイリー=スチュワートのコードネームは「ポワレ」で、連絡用に想像された架空の人物「マリー=ルイーゼ」と共に洋梨の品種名に因んでいた。 彼はその後の5年間をロンドン塔で過ごした。彼は現在までにロンドン塔に投獄された最後のイギリス人である。
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