1933年から2000年まで
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「ワシントン・ポスト」の記事における「1933年から2000年まで」の解説
破産したポスト紙を金融家のユージン・メイヤーが1933年に買収した時、メイヤーは「どの政党にも属さない」と世間に宣言した。しかし、有力な共和党員であるメイヤーは、フランクリン・ルーズベルトのニューディール政策に反対しており、それがポスト紙の論調や報道内容に影響を与えていた。メイヤーは偽名を使ってポスト紙に寄稿することもあった。メイヤーの妻のアグネス・E・メイヤーは、政治的には反対の立場のジャーナリストだった。ポスト紙は、彼女の個人的な友人であるジョン・デューイやソウル・アリンスキーへの賛辞を含む、アグネスの作品を多く掲載した。 ユージン・メイヤーの後継の発行者となったフィル・グラハムとキャサリン・グラハムは、ジョン・F・ケネディ、ベン・ブラッドリーを始めとする「ジョージタウンセット」(大半がハーバード大学卒業生)と親交を深め、ポスト紙の政治的方向性を決定づけていった。キャサリン・グラハムがジョージタウンで開催した晩餐会の招待者には、イギリスの外交官でソ連のスパイのドナルド・マクリーンが含まれていた。 「マッカーシズム」という言葉が初めて使われたのは、1950年にポスト紙に掲載されたハーブロックの風刺漫画だった。この漫画は、ジョセフ・マッカーシー上院議員が行った中傷や人物破壊を揶揄したもので、バケツに入ったタールが描かれている。マッカーシー上院議員は、下院非米活動委員会(HAUC)がアメリカ国内のソ連のスパイ活動を調査のためにやってきたことを、上院でもやろうとしていた。 フィル・グラハムとジョン・F・ケネディの友情は、1963年に2人が亡くなるまで続いた。初代FBI長官のジョン・エドガー・フーヴァーは、新大統領のリンドン・ジョンソンに対し、「私はポスト紙を読まないので、その影響はあまりない。私はポスト紙を『デイリー・ワーカー(英語版)』のようなものだと思っている」と言ったと伝えられている。 1968年にベン・ブラッドリーが編集主幹に就任し、1969年にはキャサリン・グラハムが正式に発行者となり、ペンタゴン・ペーパーズやウォーターゲート事件などの積極的な報道への道が開かれた。1971年、ポスト紙は、FBIから盗まれたFBIの違法な監視活動をが記載された記録書類「ペンタゴン・ペーパーズ」の内容を、『ロサンゼルスタイムズ』『ニューヨーク・タイムズ』が掲載を見送る中で掲載した。これは、ベトナム戦争に対する国民の反発につながった。 1970年代半ばには、報道と社説の両方で左翼的な偏向が見られるとして、保守派の一部がポスト紙を「ポトマック河畔のプラウダ」(Pravda on the Potomac) と呼んだ。それ以来、リベラル派と保守派の両方のポスト紙の批判者によってこの呼称が使われている。
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