1933年、バーデン
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1932年末の国会選挙でついにナチスは第一党となり、1933年には独裁権力を掌握し、社会や国民の強制的同一化を推し進めた。フリックは今度はドイツ国の内務大臣となり、シュルツェ=ナウムブルクも復権、ファイステル=ローメーダは『ドイツ芸術通信』で、ドイツ中の美術館からコスモポリタン的、ボルシェヴィキ的作品を一掃し、その作品と購入金額を公衆の前に晒したうえで購入に責任のある美術館長を首にし、作品は焼却して以後これらの作家や美術館員が二度と復権できないようにすることを求めた。3月1日からシュトゥットガルトで開かれたオスカー・シュレンマー回顧展は、ナチスが国会過半数を獲得した1933年3月ドイツ国会選挙とほぼ同時期の開始であった。この展覧会はナチス系の機関紙からゴミの山だという罵倒を受け、その12日後に急遽閉幕された。 これに呼応して同年、ドイツ南西部のバーデン・カールスルーエで、美術学校長でありファイステル=ローメーダとも親しい画家のハンス・アドルフ・ビューラーが分離派展開催を阻止、そのかわりに1933年4月8日から『1918年から1933年までの政府公許芸術』展を開催した。この展覧会では表現主義など同時期の前衛的な芸術活動による作品を、誹謗する目的で展示した展覧会だった。これは青少年に悪影響を与える、として18歳以下入場禁止にされ意図的に一般の好奇心を高め、さらに各作品の横に購入価格を加えて、敗戦後の経済危機にもかかわらず政府や美術館が無駄遣いをしたことを強調した。しかもハイパーインフレ時代の巨額の数字をわざとそのまま展示したため、狙い通り観客やマスコミの間に美術館行政に対する怒りが広がった。これらの手法は1937年のミュンヘンの『退廃芸術展』でも行われている。
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