1933年1月場所に復帰した力士
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「春秋園事件」の記事における「1933年1月場所に復帰した力士」の解説
幕内格別席力士 綾櫻由太郎 鏡岩善四郎 朝潮供次郎(番付発表後に男女ノ川へ改名) 和歌嶌三郎 太郎山峯吉 新海幸蔵 高ノ花武也 錦華山大五郎 寶川政治 灘ノ花虎之助(脱退時の四股名は伊勢ノ濱) 海光山大五郎 外ヶ濱弥太郎 十両格別席力士 金湊仁三郎 銚子灘傳右エ門 太刀若峯五郎 番神山政三郎 綾曻竹藏 楯甲新蔵 磐石熊太郎 綾若真生 幕下格別席力士 出羽湊利吉(脱退時の四股名は土ヶ崎) 綾錦久五郎(脱退時の四股名は能登錦) 大日本相撲協会は、1932年には前年までの形式を踏襲して年4場所(2・5月東京、3月名古屋、10月京都)興行したが、関西角力協会が関西に本拠を置いたため、3月と10月に行なっていた関西本場所を廃止して、1933年以降は大正以前と同じ1月と5月の東京場所のみに戻ることになった。 いち早く一派を脱退して協会に帰参した武藏山は大関のまま再出発したが、当時の世論は天竜たちに同情的であったこともあり、武藏山には「裏切り者」の罵声が飛んだという。のちに横綱に昇進したものの、事件前年(1931年)に負傷した右腕の影響もあって期待通りの活躍を収めたとは言えず、事件を巡る一連の行動は武藏山の土俵人生に陰影を落とす。 天竜は、玉錦三右エ門の横綱免許授与に関して協会と吉田司家に「(玉錦は)人格面で横綱の資格を満たしていない」との意見を出したが、両者からあっさり無視されるなど徐々に劣勢となり、満州(現:中国東北部)に活動の場所を求めるが、双葉山の活躍にも押されて徐々に客足が衰えていった。この時期の関西協会に対して、作家の舟橋聖一は「トーナメント式の三番勝負は、國技館の一番勝負より消耗度が激しいので(立合いの)変化の多いものだった」と回想している(『相撲記』(1943年))。後年には関西協会の相撲が急速に飽きられた原因として力士の象徴である髷を無くしたことと興行がトーナメント形態であることを挙げる分析も見られている。 1937年12月に関西角力協会は解散した。この時関西協会に所属していた力士のほとんどが1938年1月場所付けで東京に復帰または新規加入した。復帰者は脱退時より一段下に編入され、関西で入門した者で櫻錦利一ら幕内・十両だった者は幕下付出、それ以下の者は新弟子扱いとなった。この時復帰しなかったのは大ノ里・天竜・山錦・錦洋・雷ノ峯・綾浪たちで、天竜らを支えた大嶌は1936年に、潮ノ濱は1937年に亡くなった。大ノ里は愛弟子たちの帰参を見届けると、中国・大連の病院で寂しくこの世を去った。 1957年4月、国会で公益法人としての相撲協会のあり方が問われることになった。いわく「寄附行為に定められた本来の事業をせず、利益追求のための興行組織化している」というのである。特に相撲茶屋問題を中心に議論となった衆議院文教委員会に参考人招致された6人の中に、天竜・永井高一郎、協会代表として武蔵川の3人が出席した。事件の首謀者だった天竜、事件の余波で入幕した出羽ノ花、事件で一旦は脱退した男女ノ川(朝潮)の師匠で、自らも協会運営を巡って相撲界を離れた永井で、事件から25年後に奇しくも春秋園事件に関わった3人が揃う。
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