1933年から1945年まで、第三帝国下で
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「ドイツの映画」の記事における「1933年から1945年まで、第三帝国下で」の解説
詳細は「ナチスの映画政策」を参照 ヴァイマル共和制の元の経済的・政治的不安により、多くの映画監督や俳優たちはドイツを離れ、特にアメリカに移っていった。エルンスト・ルビッチは1923年にハリウッドに移り、ハンガリー生まれのマイケル・カーティスは1926年に移った。1933年にナチ党が政権をとってから、流出は更に拡大していく。約1,500人もの映画監督・プロデューサー・俳優・その他の映画製作者たちが移住していったとみられている。その中にはウーファのトップであったプロデューサーのエリッヒ・ポマー、女優のマレーネ・ディートリヒ、俳優のピーター・ローレ、映画監督のフリッツ・ラングなどがいる。ラングのドイツ脱出は有名である。ラングの『メトロポリス』を見たヨーゼフ・ゲッベルスは自分のプロパガンダ映画製作チームのリーダーに是非なって欲しいとラングに申し入れたと言われ、ユダヤ系だったラングはその日のうちに一人でフランスに逃れたという。多くの将来有望と見られていた若手監督たちもアメリカに逃れ、ハリウッドでその才能を発揮し、アメリカ映画界に大きな影響を及ぼした。1930年代にユニバーサル映画が量産したホラー映画の多くは、そういったドイツ人監督(カール・フロイント、ヨーエ・マイ、ロバート・シオドマク等)の作品であった。映画監督のエドガー・ウルマーやダグラス・サーク、オーストリア人脚本家(後に映画監督になった)のビリー・ワイルダーなどもナチ政権を逃れてアメリカに移住し、ハリウッドで成功した。しかしナチに迫害された映画人すべてが逃れた訳ではなく、例えば俳優・映画監督であったクルト・ゲルンは強制収容所で亡くなった。彼はガス室に送られる直前に「強制収容所の素晴らしい環境」を宣伝する映画を作らされており、それが遺作となった。 ナチが政権を取ってから数週間後の1933年3月、アルフレート・フーゲンベルクはユダヤ系の社員を解雇してウーファを一変させた。同年6月、ナチ党は帝国映画院(Reichsfilmkammer)を設立、ユダヤ系や外国人を排除して映画業界をコントロールするようになる。強制的同一化 (Gleichschaltung) のプロセスの一環として、ドイツのすべてのプロダクションはゲッベルス管轄下の国民啓蒙・宣伝省に属する帝国映画院の下に置かれ、映画産業に従事するすべての人々はReichsfachschaft Filmのメンバーでなければならなくなった。アーリア系でない映画人や、政治的また個人的にナチに受け入れられなかった映画人は業界から締め出されることになる。これによって約3,000 名が影響を受けたと見られている。加えて、ジャーナリストたちも宣伝省の下に組織されることになり、結果として1936年には映画批評は禁止され、Filmbeobachtung(「映画報告」)に取って変わられた。ジャーナリストたちは映画の内容をリポートすることだけを認められ、作品にいかなる評価を下すことも出来なくなってしまった。 ドイツ映画産業は全体主義に飲み込まれ、いかなる映画もナチ体制と調和していなければ製作することは出来なくなる。しかしながら、反ユダヤのプロパガンダ作品 - 興行的に失敗した1940年の『永遠のユダヤ人』や、ドイツだけでなくヨーロッパ中で成功を収めた『ユダヤ人ジュース』(Jud Süß) - もあるにはあったが、大半のドイツ映画はエンターテインメントの要素が強かった(もちろん、国家への服従や総統の理念(指導者原理、Führerprinzip)といった「ドイツ的価値観」を人々に植え付ける工夫はされていた)。1936年から外国映画の輸入が制限されるようになり、1937年に国営化された業界はその埋め合わせをしなければいけなくなる。第二次世界大戦の末期になるにつれ、次第に濃くなるドイツの敗色から大衆の目をそらせることが出来る映画はヒトラーの政府にとって更に重要になってくる。戦時中に最もヒットした映画『Die große Liebe』(1942)と『希望音楽会』(1940)は、両方ともミュージカル要素と愛国的プロパガンダを含んだ戦時中のロマンスものであった。また、初期のカラー作品であったコミカルなミュージカル映画『Frauen sind doch bessere Diplomaten』 (1941)やヨハン・シュトラウス2世のオペレッタの映画化作品『Wiener Blut』(1942)なども人気を博した。一般大衆を楽しませ、かつプロパガンダも促進できる映画は国家にとって重要な道具となっていた。 この時代、多くの才能ある映画人の流出や政治的制約にもかかわらず、アグファカラー (Agfacolor)の導入に代表される映画技術や芸術性の進展が見られた。その代表的な人物はレニ・リーフェンシュタールである。リーフェンシュタールの作品 - 1934年にニュルンベルクで開かれた全国党大会を納めたドキュメンタリー『意志の勝利』(1935)と、1936年夏のベルリンオリンピックに関するドキュメンタリー『オリンピア』(1938) – はカメラワークが優秀な作品であり、後の世代に大きな影響を与えた。しかし双方の作品、特に『意志の勝利』はナチを賞賛する作品として、現在でも問題視されている作品である。
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