「反革命分子」の摘発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 15:22 UTC 版)
「ホロドモール」の記事における「「反革命分子」の摘発」の解説
1923年に反革命分子として処刑されたものの67%は農民だった。1924年2月にウクライナで通達された秘密回状では、「反革命分子」とは、以下の者が該当するとされた。 「革命前のブルジョワ政党員、穀物連合会員、ボーイスカウトなど青年団体会員、旧内務省・警察・憲兵隊・司法省などの帝政ロシアの官僚および軍人、白軍、ウクライナ中央ラーダに雇用された者、正教会・カトリック・ユダヤ教の司祭など宗教組織のメンバー、商人・商店主・企業家・土地所有者・富農、職人、外国人および外国に親戚や知人を持つもの、帝政ロシアの学校の教員・学者、かつてスパイや密輸で有罪となったもの、およびその容疑者、そして自分の政治的立場を明らかにしていないもの」などであり、これらに該当する者はウクライナ人の大部分を占めた。 スターリンは1924年に「われわれ共産党員は特別な人間なのだ」「ボリシェヴィキ軍団の一員になるということは、何ものにも代えがたい名誉なのだ」と語り、当時影響力を持った書籍『共産党員の倫理』では、ボリシェヴィキは現代の支配階級であるプロレタリアートの代表であり、ボリシェヴィキとプロレタリアート以外の女性との結婚は、前世紀の伯爵と女中の結婚のように非難されるべきであると主張した。 1925年5月、スターリンは「ロシアのような後進国でも完全な社会主義を実現できる」とする一国社会主義論を唱え、金属工業を重視した。しかし、1925年に「商品飢饉」が起きると、スターリン政権は、穀物や木材の輸出による利益(差益)での解決を決定し、農民から穀物を安く買い上げた。
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