第三回モスクワ裁判とは? わかりやすく解説

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第三回モスクワ裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 15:21 UTC 版)

大粛清」の記事における「第三回モスクワ裁判」の解説

1938年3月ニコライ・ブハーリンらが右翼トロツキスト陰謀事件容疑で第三回モスクワ裁判で裁かれ処刑された。このブハーリン裁判19人が処刑されスターリンによる古参党員反対派狩り完成された。

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第三回モスクワ裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/02 23:02 UTC 版)

モスクワ裁判」の記事における「第三回モスクワ裁判」の解説

1938年3月2日、「右翼トロツキスト陰謀事件」を訴因としてブハーリンを裁くための法廷いわゆる21裁判」が開かれた被告人目玉ブハーリンであったが、それ以外ヤゴーダ彼の失脚巻き込まれた元NKVD隊員、元大使など外交官前回同様の産業セクション責任者ソ連構成国幹部果てはクレムリン勤務医までもが含まれていた。 裁判場は500人以上が収容できる連邦会館ホール設けられたが、やはり傍聴席NKVD埋め尽くされた。ブハーリン、前NKVD長官ヤゴーダルイコフなど21名が被告となったが、この裁判における世界注目ブハーリンにあった。しかしブハーリンはじめ被告たちはやはり何ら異議唱えず、罪を「自白」してしまう。このブハーリン様子外国人ジャーナリストたちはさまざまに書いているが、そのうちコンクェストによると「裁判でうそを告発しようとしたブハーリン考えあまりにデリケートすぎた。もし彼にそういう考えがあればの話だが。利害関係無くまともな傍聴人でも告発信じなかっただろう。が、この裁判劇はもっと広範な政治的聴衆のために上演されたのであって彼らの印象は単純である。ブハーリン自白した、と。」と総括する一方、ただ一人ニコライ・クレスチンスキーだけが「私が有罪など、認めわけにはいかない。私はトロツキー派ではない。私は決して"右翼トロツキー・ブロック"のメンバーではないし、そんなもの存在すら知らないまた、個人転嫁され犯罪は ただの一つたりとも行ってはいない。 ―― そして特に、ドイツ情報機関との関係を維持していたことについて、私は無罪である」と反論試みた。もっともクレスチンスキーも翌日には「昨日は、被告席の雰囲気と、起訴状朗読による辛い印象とにより呼び起こされいわれなき恥辱であるという感覚を、一時的に抱いていた影響のために、そして私の体調不良がそれをいっそう重く感じさせ、私は本当のこと述べることができず、有罪であることを認めることができませんでした。そして「私は有罪です」と述べ代わりに、ほぼ機械的に「私は無罪です」と答えてしまいました」と述べて「罪」を「自白」してしまった。肉体的精神的かは不明だが、NKVDがクレスチンスキーに何らかの圧力をかけたと考えられる判決3月13日下されブハーリン以下18人の被告2日後銃殺刑処せられた。ドミトリー・プレトニョフ(スペイン語版)、セルゲイ・ベッソノフ(ロシア語版)、フリスチアン・ラコフスキー(英語版)の3名は25年から20年懲役刑宣告され、一旦は「助命」されたものの、1941年独ソ戦勃発に伴いドイツ軍侵攻オーレル刑務所英語版)に迫った結果第2回モスクワ裁判により服役していたストロイロフとバレンティン運命同様にメドベージェフ虐殺英語版)に巻き込まれ、3名ともNKVD殺害されてしまった。 なお、ブハーリンはこの裁判の前、逮捕予期して「党の指導者未来世代へ」と題する一文したため、妻アンナにこれを暗記させてから燃やさせたという。そこには 「 私はこの世を去る。私が頭を垂れるのは、容赦ないのであるべきだが、純潔なのであるべきプロレタリアの斧の前にではない。地獄機械前に自分無力さ感ずる。それは、明らかに中世方法使いながら、怪力をふるい、組織され中傷でっち上げ堂々と自信満々振る舞っている。ジェルジンスキーはもういない。チェーカー立派な伝統過去のものとなった。そのすべての行動導き、敵に対す残忍さ正当化しあらゆる反革命から国家守ったのは革命イデー理念であったそれゆえに、チェーカーの諸機関特別な信頼特別な名誉、権威尊敬得たのだ。現在、いわゆる内務人民委員部の諸機関大部分――それは無思想の、腐敗した充分に生活を保証され官吏組織変質し過去チェーカー権威利用しつつ、スターリン病的な猜疑心言うなりになり、それ以上は言うことをはばかるが、勲章と名誉を追い求めて自分醜悪な事業をつくり出している。(中略)私は一度たりとも裏切り者になったことはないし、レーニン生命を救うためなら、逡巡することなく自分生命差し出したであろう。私はキーロフ愛しスターリンに対して何一つ企てたことはない。党の指導者新しい、若い、誠実な世代お願いする党中央委員会総会で私の手紙を読み上げ、私を無罪認め復党させていただきたい同志たちよ、諸君共産主義へ向かう勝利行進においてかかげる赤旗には、私の血の一滴含まれていることを知っていただきたい。 」 とあったという。アンナその後逮捕され強制収容所から生還し解放後1956年になってようやく書き下ろした。そして夫の名誉回復後1989年書いた回想録『夫ブハーリン想い出』においてこの手紙を公表した

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