第三回モスクワ裁判
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1938年3月、ニコライ・ブハーリンらが右翼トロツキスト陰謀事件容疑で第三回モスクワ裁判で裁かれ、処刑された。このブハーリン裁判で19人が処刑され、スターリンによる古参党員の反対派狩りは完成された。
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第三回モスクワ裁判
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1938年3月2日、「右翼トロツキスト陰謀事件」を訴因としてブハーリンを裁くための法廷、いわゆる「21人裁判」が開かれた。被告人の目玉はブハーリンであったが、それ以外はヤゴーダと彼の失脚に巻き込まれた元NKVD隊員、元大使などの外交官、前回と同様の産業セクションの責任者、ソ連構成国の幹部、果てはクレムリンの勤務医までもが含まれていた。 裁判場は500人以上が収容できる連邦会館ホールに設けられたが、やはり傍聴席はNKVDで埋め尽くされた。ブハーリン、前NKVD長官のヤゴーダ、ルイコフなど21名が被告となったが、この裁判における世界の注目はブハーリンにあった。しかしブハーリンはじめ被告たちはやはり何らの異議も唱えず、罪を「自白」してしまう。このブハーリンの様子を外国人ジャーナリストたちはさまざまに書いているが、そのうちコンクェストによると「裁判でうそを告発しようとしたブハーリンの考えはあまりにデリケートすぎた。もし彼にそういう考えがあればの話だが。利害関係が無く、まともな傍聴人でも告発は信じなかっただろう。が、この裁判劇はもっと広範な政治的聴衆のために上演されたのであって彼らの印象は単純である。ブハーリンが自白した、と。」と総括する。 一方、ただ一人ニコライ・クレスチンスキーだけが「私が有罪など、認めるわけにはいかない。私はトロツキー派ではない。私は決して"右翼トロツキー・ブロック"のメンバーではないし、そんなものの存在すら知らない。また、私個人に転嫁された犯罪は ただの一つたりとも行ってはいない。 ―― そして特に、ドイツの情報機関との関係を維持していたことについて、私は無罪である」と反論を試みた。もっともクレスチンスキーも翌日には「昨日は、被告席の雰囲気と、起訴状朗読による辛い印象とにより呼び起こされたいわれなき恥辱であるという感覚を、一時的に抱いていた影響のために、そして私の体調不良がそれをいっそう重く感じさせ、私は本当のことを述べることができず、有罪であることを認めることができませんでした。そして「私は有罪です」と述べる代わりに、ほぼ機械的に「私は無罪です」と答えてしまいました」と述べて「罪」を「自白」してしまった。肉体的か精神的かは不明だが、NKVDがクレスチンスキーに何らかの圧力をかけたと考えられる。 判決は3月13日に下され、ブハーリン以下18人の被告が2日後に銃殺刑に処せられた。ドミトリー・プレトニョフ(スペイン語版)、セルゲイ・ベッソノフ(ロシア語版)、フリスチアン・ラコフスキー(英語版)の3名は25年から20年の懲役刑が宣告され、一旦は「助命」されたものの、1941年の独ソ戦勃発に伴いドイツ軍の侵攻がオーレル刑務所(英語版)に迫った結果、第2回モスクワ裁判により服役していたストロイロフとバレンティンの運命と同様に、メドベージェフ森の虐殺(英語版)に巻き込まれ、3名ともNKVDに殺害されてしまった。 なお、ブハーリンはこの裁判の前、逮捕を予期して「党の指導者の未来の世代へ」と題する一文をしたため、妻アンナにこれを暗記させてから燃やさせたという。そこには 「 私はこの世を去る。私が頭を垂れるのは、容赦ないものであるべきだが、純潔なものであるべきプロレタリアの斧の前にではない。地獄の機械の前に自分の無力さを感ずる。それは、明らかに、中世の方法を使いながら、怪力をふるい、組織された中傷をでっち上げ、堂々と自信満々に振る舞っている。ジェルジンスキーはもういない。チェーカーの立派な伝統は過去のものとなった。そのすべての行動を導き、敵に対する残忍さを正当化し、あらゆる反革命から国家を守ったのは革命のイデー(理念)であった。それゆえに、チェーカーの諸機関は特別な信頼、特別な名誉、権威、尊敬を得たのだ。現在、いわゆる内務人民委員部の諸機関の大部分――それは無思想の、腐敗した、充分に生活を保証された官吏の組織に変質し、過去のチェーカーの権威を利用しつつ、スターリンの病的な猜疑心の言うなりになり、それ以上は言うことをはばかるが、勲章と名誉を追い求めて自分の醜悪な事業をつくり出している。(中略)私は一度たりとも裏切り者になったことはないし、レーニンの生命を救うためなら、逡巡することなく自分の生命を差し出したであろう。私はキーロフを愛し、スターリンに対して何一つ企てたことはない。党の指導者の新しい、若い、誠実な世代にお願いする。党中央委員会総会で私の手紙を読み上げ、私を無罪と認め、復党させていただきたい。同志たちよ、諸君が共産主義へ向かう勝利の行進においてかかげる赤旗には、私の血の一滴も含まれていることを知っていただきたい。 」 とあったという。アンナはその後逮捕されて強制収容所から生還し、解放後の1956年になってようやく書き下ろした。そして夫の名誉回復後の1989年に書いた回想録『夫ブハーリンの想い出』においてこの手紙を公表した。
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