樺太での生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 00:05 UTC 版)
大塚陽子は1930年7月12日、樺太の敷香町に生まれた。父、大塚鉄作は会津若松の刀鍛冶の家に生まれ、夕張の叔母の養子となり、その後一旗上げようと樺太に渡った。鉄作は山師気質の人物で事業の成功失敗を繰り返していた。また好奇心旺盛でもあり、オタスに住んでいたギリヤーク人と親交を持ってロシア語を学び、家には文学全集が並んでいた。そのような家庭環境の影響を受け、6人兄弟の次女であった陽子以外にも、若くして亡くなった脚本家志望の弟がおり、そして末っ子の弟は小説を書くようになった。 大塚陽子は父親似であり、父が大好きであった。父もまた自分に似た陽子のことを可愛がった。3~4歳の頃、父が事業に失敗し、陽子ら子どもたちはいったん帯広の叔父宅で生活するようになる。その後まもなく進学を控えた長女を残して樺太の本斗(現ネベリスク)で生活するようになる。樺太に戻った頃は父の事業は順調で羽振りも良かったものの、またすぐに事業に失敗し、家族で夜逃げする羽目に陥った。その後父は知床村(現ノヴィコヴォ)の美田炭鉱で管理職として働くようになってようやく一家の生活は安定し、叔父宅で生活していた姉も家族と合流した。 小学校4年生の頃、炭鉱事務所にパーマに洋服を着こなし、ハイヒールを履くタイピストがやって来た。陽子は大いにカルチャーショックを受け、タイピストの自宅にあったガラス細工を見てガラスデザイナーを夢見るようになった。後にタイピストを生業とするようになったのは、この美田炭鉱でのタイピストとの出会いが大きかった。 1943年、姉が進学していた豊原(現ユジノサハリンスク)の樺太庁豊原高等女学校に進学し、姉とともに寄宿舎生活を始めた。女学校当時、陽子は級長を務めており、理数系が得意で文学とは縁が無かった。やがて戦況が厳しくなる中、1944年には援農、松脂取り、カゼイン工場勤務等の勤労動員に駆り出されるようになり、授業はあまり行われなくなった。この頃、家族は父が購入した大泊(現コルサコフ)の自宅で暮らすようになっていた。1945年に樺太庁豊原高等女学校を卒業した姉も、大泊町役場に就職して大泊の自宅暮らしとなった。寄宿舎で掃除洗濯等、日常生活全般を姉に頼り切りであった陽子は、無理を言って樺太庁豊原高等女学校から大泊にあった樺太庁大泊高等女学校に転校し、やはり大泊で実家暮らしをするようになった。 1945年の夏休み、大泊町役場勤めの姉以外の家族は、美田炭鉱閉山後に父が勤務するようになった好仁村南名好の炭鉱町で過ごした。そこで一家は樺太の戦いや終戦後の混乱に巻き込まれることになった 。終戦後、姉のみは早い時期に引き揚げ船に乗って帯広の叔父の家で生活するようになったが、父がオタスでギリヤーク人から学んだロシア語が役に立ち、ソ連支配下になった炭鉱でも重宝されたため、引き留められる形となった一家はなかなか樺太から出られなかった。その間、陽子は炭鉱事務の補助や、引き揚げ後に教師不在となった小学校で教壇に立ったりした。結局、一家が引き揚げ船に乗って北海道に戻ったのは終戦後3年が経過した1948年8月のことであった。
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