占領当日
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ハサン・タフスィン・ベイ スュレイマン・フェトヒ・ベイ イズミル占領に先立ち、5月14日にイズミルの要塞地区が占領された。英軍部隊はカラブルン(英語版)とウズンアダ(英語版)を、仏軍部隊はウルラ(英語版)とフォチャを、ギリシャ軍部隊はイェニカレ(英語版)を占領した。 1919年の5月15日午前、連合国艦隊の援護のもとギリシャ軍はイズミルの埠頭に上陸した。イズミルでは、これに対抗できる200名ほどの部隊が駐留しているに過ぎなかった。イズミルとその周辺に展開する部隊の指揮官アリ・ナーディル・パシャはギリシャ軍に抵抗しないよう、武器を連合軍に引き渡すよう、命令した。イズミルのギリシャ系住民が歓喜のデモンストレーションのなか閲兵式を行ったギリシャ軍に対して発砲したハサン・タフスィン・ベイ(英語版)は、ギリシャ兵一名を殺害したが、その直後に他のギリシャ兵により射殺された。このハサン・タフスィン・ベイの発砲がトルコ解放戦争を開始した「最初の一発」とされることがある (異説もある)。ギリシャ兵はこれに対抗して周囲に一斉射撃を始めた。兵舎にいた非武装のトルコ兵を目標にした一斉射撃は、彼等が投降したにもかかわらず続けられた。トルコ人将兵は銃床でなぐられ、銃剣で刺され殺害された。「万歳、ヴェニゼロス」と叫ぶことを拒んだ第17軍団徴兵局長スュレイマン・フェトヒ・ベイ(トルコ語版)大佐はエヴゾン兵たちにより銃剣で22箇所を刺され、病院で死亡した。第17軍団司令官アリ・ナーディル・パシャ准将はギリシャ兵たちから殴る蹴るの暴行を受けた。トルコ系住民に対する殺害、略奪、強姦が始まった。 イズミル占領の当日に約400名のトルコ人が、5月15日から16日にかけて周辺の村や郡で発生した事件では5000名のトルコ人が、殺害された。1919年5月19日付の『ニューヨーク・タイムズ』紙は、イズミル占領当日に800人のトルコ人と100人のギリシャ人が死亡したと報道した。5月15日までに合計約2万名のギリシャ兵がイズミルと周辺地域に進駐した。 5月16日、イズミルの占領を知った約800名のギリシャ系住民は、トルコ系の村々を襲い、無防備の住民を殺害、略奪を始めた。ウルラのトルコ系街区はギリシャ系により包囲された。これに対して、第56師団第173連隊連隊長キャーズム・ベイ中佐は、18人の兵士と何人かのジャンダルマとともに防衛組織を創設し、ギリシャ系住民による攻撃を撃退した。同日、この出来事を知った町のトルコ系住民はウルラの武器庫にあった武器と弾薬をとり、120人程度の民兵部隊を組織した。このようにして西アナトリア地方で最初の国民軍が誕生した。周辺地域において他の民兵組織も急速に創設された。
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