占領地オランダ国家弁務官
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「アルトゥル・ザイス=インクヴァルト」の記事における「占領地オランダ国家弁務官」の解説
1940年5月15日にオランダ王国がドイツに降伏。同年5月28日にザイス=インクヴァルトは「占領地オランダ駐在の国家弁務官」に任命され、オランダの民政の全権を握った。 5月29日のオランダ国民に向けた就任演説で彼はこう述べた。「総統の寛容、ならびにドイツ軍将兵の有能さにより、市民生活は速やかな回復を遂げつつある。私はオランダの法律を全てそのまま認めるとともに、全体的な行政がこれまで通り遂行されることを期待する」、「我々ドイツ人がやってきたのは、この地を、この民族を征服するためではない」、「我々は政治的信念を強制するつもりはない」、「ドイツ民族と血縁的に近いオランダ民族が互いに尊敬の念を持って出会うのを邪魔するようなものは何一つとして存在していない」。 オランダはノルウェーのような現地民による傀儡政府は置かれず、国家弁務官ザイス=インクヴァルトをトップとするドイツ政府占領行政機関(デン・ハーグに置かれた)によって直接に統治された。オランダの女王や首相はドイツ軍侵攻の最中にイギリスへ亡命したが、オランダ官僚機構はそのまま残されており、ドイツ占領行政機関の下に入った。彼らはドイツ人に反抗的ではなく、むしろ従順であった。 占領行政機関はオーストリア・ドイツ人によって固められた。国家弁務官ザイス=インクヴァルト、行政担当弁務官フリードリヒ・ヴィマー(ドイツ語版)、経済問題担当弁務官ハンス・フィッシュベック(ドイツ語版)、親衛隊及び警察高級指導者ハンス・ラウター親衛隊大将など全員オーストリア出身である。宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスは、オーストリア人はハプスブルク帝国時代に従属民族をたくさん抱えて支配してきたので、従属民族の取り扱いがうまいと評価している。 ザイス=インクヴァルトは、非ユダヤ系オランダ人についてはオランダとの間に結んだ休戦協定に基づいて取り扱うが、ユダヤ系オランダ人はその対象とはならないと明言した。彼はこう述べている。「我々にとってのユダヤ人は、オランダ人ではない。彼らは、我々が休戦条約を結ぶことも、和解することも不可能な敵である」。ユダヤ人は職場から追放され、ユダヤ人企業が次々と「アーリア化」されていった。オランダ・ユダヤ人が貧乏にされていくのと並行して、親衛隊ではオランダ・ユダヤ人を東部の絶滅収容所へ移送する準備を開始していた。オランダ南部のヘルツェーゲンブッシュ強制収容所(ドイツ語版)とヴェステルボルク通過収容所という二つの収容所がオランダ・ユダヤ人の移送の拠点となった。このうちヘルツォーゲンブッシュ強制収容所はザイス=インクヴァルトによって創設され、1943年1月に親衛隊経済管理本部に引き渡されている収容所である。 ザイス=インクヴァルト統治下のオランダは、他のドイツ占領地と比べても特に激しいユダヤ人狩りが行われた。当時オランダで暮らしていたユダヤ人は14万人いたが、そのうち11万以上がオランダ国外の絶滅収容所や強制収容所へと移送されている。そのうち戦後まで生き延びていたのはわずか6000人だったという。『アンネの日記』の著者アンネ・フランクもオランダから移送されて死亡した者の一人である。 またドイツの戦況が悪化するに従って、非ユダヤ系オランダ人に対しても厳しい強制労働が課せられるようになった。オランダ人500万人が強制労働のためにドイツへ移送されている。レジスタンス活動家は即決裁判で処刑され、レジスタンスの関係者がいた市町村も集団罪に問われて処罰された。ザイス=インクヴァルト統治下で4万1000人のオランダ人が処刑され、5万人のオランダ人が餓死した。 他方、穏健的立場をとることもあり、1943年にユダヤ人配偶者に対して強制的に断種手術を施すことが計画された時、カトリック・プロテスタント両教会の反対を受け入れて中止させている。また後にニュルンベルク裁判の判決でも認められた通り反逆者の処刑を行う親衛隊に射殺人数を減らすよう求めたり、陸軍の焦土作戦の防止に努めたりしていた。 @media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important} 1940年6月、オランダの病院に入院中の戦傷者を見舞うザイス=インクヴァルト。 1940年6月、ミデルブルフ市長ヤン・ファン・ヴァルレ・デ・ボーデス(オランダ語版)からミデルブルフ再建計画の説明を受けるザイス=インクヴァルト。 1941年6月9日のドールン(オランダ語版)。ヴィルヘルム2世の葬儀に参列するザイス=インクヴァルト(最前列左の眼鏡の人物)。中央の老人はアウグスト・フォン・マッケンゼン元帥。その後列左より、国防軍最高司令部長官代理ヴィルヘルム・カナリス提督、空軍総司令官代理フリードリッヒ・クリスチャンセン航空兵大将(ほぼ隠れている)、陸軍総司令官代理クルト・ハーゼ上級大将、海軍総司令官代理ヘルマン・デンシュ提督。 1944年6月、戦死者に花輪をささげるザイス=インクヴァルト。
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