陸上選手として
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早稲田大学教育学部進学後は早稲田大学競走部に所属。しかし、練習は吉岡のメニューに従い、週末は立川市にあった(吉岡が所属する)リッカーの練習場に通っていた。「ロケットスタート」の異名を取るスタートの速さで頭角を表し、1964年6月26日、西ベルリンの国際陸上競技会で100m10秒1を記録し、吉岡の持つ日本記録(10秒3、当時の世界タイ記録)を29年ぶりに更新した。しかし同年の東京オリンピックでは、第一次予選で予選最高タイムを出しながら、第二次予選でのゴール直後の転倒による影響から準決勝で敗退した。400mリレーでは第1走を務めたが、こちらも二次予選(準決勝)で敗退している。 早大卒業後は茨城県庁に入庁。1965年ユニバーシアード(ブダペスト)において追い風参考ながら10秒1で優勝。前年の東京オリンピック3位であったカナダのハリー・ジェロームを破った。また、1966年の欧州遠征でも2回にわたり10秒1を記録した。しかし、1967年6月のヨーロッパ遠征で左足を負傷して手術を受けたため、オリンピックの候補・強化選手からははずされた。またこの時期から吉岡との関係もぎくしゃくしたものになり、1968年6月のアメリカ遠征では「亀裂は決定的になった」という。吉岡と訣別し、秋のメキシコオリンピックでメダル獲得を狙うも、またしても準決勝で力尽きた。ロケットスタートを見せながら、50~70m付近で肩の筋肉が硬直し、ストライドが広がり、体が上に跳ぶような状態に陥り、失速するケースが多く見られた。この理由として本人は、この頃トラックが土からタータントラック(英語版)(ゴム製の全天候トラック)に変わり、その反発力の違いに体が対応出来なかったためと述べている。 なお、メキシコオリンピックの準決勝でマークされた上記の記録は電気計時で10秒34であったが、公認されなかった。これは当時、公式タイムが手動計時によるものが有効とされており、現在のような電気計時による記録が国際陸上競技連盟によって公認されたのが1975年からだった。陸上競技マガジンが毎年春先に出版している記録集計号の中には、「日本記録の変遷」として飯島の名前が登場し、10秒34について過去に遡及して公式記録として公認と但し書きが付いている。また、同歴代50傑の中で飯島の名前は2006年まで残っていた。
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陸上選手として
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慶應義塾大学に入学、箱根駅伝に第13回大会(1932年)から第16回大会(1935年)まで連続出場。 1932年(昭和7年)4月30日に関東選手権(神宮)の3000メートル障害で今井が出した記録(10分6秒4)が、最初の日本学生記録かつ日本記録である。 1935年(昭和10年)11月3日、日本陸上競技選手権大会の3000メートル障害において9分38秒8の日本記録で優勝した(この日本記録は1940年に大沢竜雄によって破られた)。これにより1936年ベルリンオリンピックの代表選手となる。オリンピックでは男子3000メートルの障害物競走に出場したが、予選を通過できなかった。 1937年(昭和12年)の日本陸上競技選手権大会でも3000メートル障害で2度目の優勝を果たした(所属は慶応クラブ)。
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陸上選手として
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「ロビナ・ムキマイヤール」の記事における「陸上選手として」の解説
2004年にはアテネオリンピックに出場し、柔道競技に出場したフェレバ・ラザイーとともにアフガニスタン史上初の女性オリンピックとなった。彼女は女子100mに出場し、予選6組で14秒14の国内記録を打ち立てたものの8人中7位に終わり予選突破はならなかった。2008年に開催される北京オリンピックでは当初彼女は代表からは外れていたものの、出場予定だったマブーバ・アジャールがタリバンによる影響もありノルウェーへと政治亡命を行い、代わりに彼女が代表へと選ばれた。再び出場することになった100mだが、予選5組最下位であり出場した85名の中でも最下位の14秒80のタイムに終わった。 彼女は2度のオリンピックにおいて普通の陸上のユニフォームではなく、上はTシャツ、下は緑の長いトラックパンツで頭にはスカーフを巻いて出場した。
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陸上選手として
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中津山中学校(現 石巻市立桃生中学校)では、陸上部に所属。 1958 中学2年生 全国中学校通信陸上競技大会 200m 28”5(全国5位(宮城県中学新)) 1959 中学3年生 全国中学校通信陸上競技大会 200m 28”2(全国2位(宮城県中学新)) この年行われた日独対抗陸上競技小田原大会のリレー第1走者として走る。 1960 高校1年生(宮城県涌谷高等学校) 東京オリンピック強化指定選手となる。当時、100m走日本記録保持者だった吉岡隆徳コーチの指導を受ける。この頃から国体に出場。(高校1年生で、秋田国体に出場して以来、100m競技の宮城県代表として11回出場、うち入賞4回。) 1962 高校3年生 オリンピック強化選手記録会 100mで、11”9をマーク。インターハイ 100m、200m、400mR(準決勝で肉離れ)※この年は、故障が多かったという。 1963 在家庭 東京国際スポーツ大会(東京オリンピックプレ大会)100m、400mに出場。400mは準決勝まで。 1964 大学1年生(日本体育大学) 佐々木吉蔵教授(東京オリンピック男子スターター)より、指導を受ける。怪我をしないための調整法を学ぶ 1965~1967 大学2年生~大学4年生 関東学生陸上競技対抗選手権大会、インカレ 100m、200m、400mR(毎年各種目入賞) 日本陸上競技全日本選手権大会 100m 11”9 6位入賞 1968 23歳 社会人(宮城県の中学校教員)時代東北陸上競技選手権大会(秋田) 100m(東北新1位)、200m(東北新1位)、400mR(1位)
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陸上選手として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/01 05:49 UTC 版)
1966年に1マイルで世界新記録。翌1967年には1マイルで再び世界記録を樹立するだけでなく、1500mでも3分33秒1の世界記録を樹立している。 キプチョゲ・ケイノと一騎討ちになった1967年の1500m世界記録樹立レースは全米に生中継され、逃げるケイノをあっさり抜き去ったスピードは視聴者を熱狂させた。この時の3分33秒1は1974年英連邦大会でフィルバート・バイに更新されるまで7年間世界記録として君臨した。 オリンピックには高校生であった1964年東京オリンピックに出場を果たしてから3大会連続出場。金メダルを獲得することを期待されたが、1968年メキシコシティーオリンピック男子1500mで銀メダルを獲得するに留まった。 メキシコオリンピックでは金メダル確実と思われたがベン・ジプチョ、キプチョゲ・ケイノのケニヤ勢作戦レースにしてやられ、それまで再三対戦し一度も負けた事のないケイノの逃げ切りを許し、高地五輪番狂わせの象徴となった。そして『自分に失望した』のコメントを残し21歳だったがあっさり引退してしまった。 しかし、故郷を中心に復帰を望む署名運動が起こり、ライアンもそれに応えて1970年にカムバックを表明ミュンヘンを目指す事になった。『失った物のすべてではないが多くは取り戻したと思う。』として臨んだミュンヘン五輪全米最終予選ではM・リクオリに続いて2着だったが僅差で両者で年度1位2位の好タイムを叩き出した。元々勝負強くラストの切れは他の追随を許さないスピードを持っているだけに再び優勝候補としてミュンヘンに乗り込むことになった。 そして迎えた準決勝、1000mを過ぎた4コーナーで一瞬集団の密集に入ったところでエチオピアのコリチャと接触、転倒して側頭部を強打、国際映像はレースを追わずこの不運なチャンピオンの苦痛と失望に歪む表情をアップで捉え続けた、なんとか立ち上がってレースに復帰した時集団はすでに200m先に行っていた。
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