バルセロナ五輪で銀メダル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 22:18 UTC 版)
「有森裕子」の記事における「バルセロナ五輪で銀メダル」の解説
その1992年バルセロナ五輪女子マラソン本番での有森は、29Km付近で3位集団から抜け出してスパート。レース終盤の35Km過ぎ、先頭を走っていたワレンティナ・エゴロワ( ロシア、当時 独立国家共同体)に追いつき、その後エゴロワと二人で急な登り坂が続くモンジュイクの丘にて、約6キロに及ぶ激しい死闘を繰り広げた。 競技場へ入る直前でエゴロワに引き離され、8秒差で五輪優勝はならなかったが、2位でゴールし、銀メダルを獲得する。日本女子陸上競技界では、1928年のアムステルダムオリンピック・女子800mで同じく銀メダリストの人見絹枝以来、64年ぶりの五輪メダル獲得である。奇しくも有森は人見と同郷(岡山出身)であり、その上銀メダルを獲得した日付も同じ8月2日(日本時間・現地では8月1日)というおまけも付いた。さらにその8月2日は、人見の命日でもあった。 その後は足底筋膜炎や、小出監督やチームメート等との軋轢等もあってスランプに陥った。「何故走り続けるのか」という事に答えが出ず、苦悩する時期が続いてマラソンは暫く走れなかった。その頃はよく、机の引き出しにしまっていた銀メダルを何度も見つめては「御免なさい」とつぶやき、メダルに向かって謝りながら泣いた事もあったという。さらには「もう死んでしまいたい」と、真剣に思い詰めたりしていたらしい。それでも「このまま選手生活を終わらせたくない」とも常に考えていた有森は、1994年足の踵の手術成功をきっかけに、再び走る事への意欲を持ち、次の1996年開催のアトランタオリンピックにも女子マラソン代表で目指す事を決意する。
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