小牧における対陣
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羽黒合戦で羽黒城は焼け落ちてしまったが、池田恒興が占拠した犬山城を本陣とした豊臣秀吉は、小牧山城に本陣を置く徳川家康と対陣していたため、羽黒城を犬山城防衛拠点として修復し、山内一豊・堀尾吉晴・伊藤祐時らに守護を任せた。この際に羽黒城防衛に当たった山内一豊の母である法秀院が、尾張梶原氏出身との説がある。しかし、終戦に伴い、修復された羽黒城も再び廃城となった。
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小牧における対陣
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「小牧・長久手の戦い」の記事における「小牧における対陣」の解説
敵襲の心配がなくなった家康は3月18日、小牧山城を占拠し、周囲に砦や土塁を築かせ羽柴軍に備えた。秀吉は3月21日に兵30,000を率いて大坂城を出発、3月25日に岐阜に進み、3月27日に犬山に着陣する。家康が小牧山城に入ってから秀吉の楽田到着までの間、両軍が砦の修築や土塁の構築を行った為、双方共に手が出せなくなり挑発や小競り合いを除けば、戦況は膠着状態に陥った。
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