お船の方
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お船の方(おせんのかた、弘治3年(1557年) - 寛永14年1月4日(1637年1月29日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。父は直江景綱、母は山吉政応の娘。直江信綱の正室、のち直江兼続の正室。
注釈
- ^ 一説に兼続の母はお船の父・景綱の妹とされ、お船と兼続はいとこであったとも言われるが、正確な史料を欠いている。また一説では兼続の母は信州泉氏の出と言われる。
- ^ 他に次女がいたとする説が長年の通説であったが、名は不明で、長男長女の様に生存の確実な証拠となりうる史料は現在のところ見つかっていない。
その次女がいたとの拠り所とされているのが、『越後国供養帳』の法名である。しかしこの法名は、兼続とお船の間の実の次女のものとしては、長女於松のものに比べやや立派であり、実の次女のものとは考えにくいことを今福匡が指摘している。さらにこの法名の供養者は「お船の乳人」で、「お船のため」の逆修供養の法名であることも指摘(逆修供養は、生存者に対する生前供養の他に、年若の者への供養にも使われる言葉である)。よってお船に頼まれ、お船の乳人がお船の生前供養をした、またはお船の代わりにお船の乳人が誰か年若の娘の供養をした法名と言える。以上のことから少なくとも、兼続とお船との間の実の次女の法名とは言い難いだろうと今福は主張している。
また今福は、『兼見卿記』(吉田兼見の日記)にあらわれた兼続の娘のことを記している。文禄4年(1595年)7月23日、京都の吉田神社に「越後上杉家中直ヲヒ山城守息女」が訪れた。兼続の娘は9歳で、「先日の契約に任せ」「猶子として来るべきの由」という。兼見の息子兼治によって、9歳息女には「御まん御料人」の名が贈られた。この日記にあらわれる「直ヲヒ息女」の2人の娘には、明らかに扱いに差がみられる。9歳息女が必ず筆頭に記述され「御まん御料人」という名までが記載されているが、姉であるはずの11歳息女はおろか、母であるはずのお船も順番では後にまわっている。姉娘については、始終「十一歳息女」とのみ記され、この姉娘は兼続とお船の長女「お松」に比定できると思われるが、ついに兼見の日記中ではその名が記されることはない。他にも「御まん」はお船と長女に比べ、兼見らから格別に気を遣われている。この9歳息女について誰であるか、蓋然性が高いのは、後に景勝の側室となる四辻氏の娘であると今福は論じている。またこの数か月前の3月28日には「上杉息女九歳、~」の一文が見える。これを景勝の娘ではなく上杉家の娘というニュアンスでとらえると、その後兼続の猶子となる話が具体化し、将来景勝の妻妾となることが予定されていたと考えられるとの説を論じている(「御料人」という呼称からしても)。また、御まん御料人が四辻氏の女であるかどうかこれだけでは断定できないが、この娘が兼続とお船の実の娘ではなく、身分の高い家柄の娘であることは間違いないであろうとしている。
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