相良長誠とは? わかりやすく解説

相良長誠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/08 09:35 UTC 版)

相良 長誠(さがら ながとも/ながまさ[1]天正6年4月3日1578年5月19日) - 慶長15年6月23日1610年8月11日))は、相良氏の第18代当主・相良義陽の三男。母親は豊永長英の娘。幼名は藤千代。通称は佐三郎。

生涯

19代当主・忠房、20代当主・頼房の同腹の弟として生まれる。天正13年(1585年)忠房が病死し、島津氏の人質となっていた頼房が家督を継ぐことになったため、頼房に代わり薩摩国出水に半年ほど人質として過ごした。天正15年(1587年)4月、豊臣秀吉九州征伐八代まで進軍した折、島津氏を救うべく日向国へ出征していた頼房に代わり、深水長智に伴われて秀吉へ降伏すべく謁見している。

その後は、中城に居室を構えて移り住み、家老深水頼蔵の娘と婚姻した。しかし、頼蔵が相良家を出奔したために離別することとなる。長誠は悲嘆にくれ、その後に重い病を発症した。ようやくそれが癒えた頃、伯耆頼綱の娘を後室として迎えたが、病気が再発したことで再び離縁している(離縁した両方ともが、家老の犬童頼兄の催促によるもの)。それからは長い養生生活を強いられ、さらには膈(の周辺)の病を発症したことで衰弱し、慶長15年に中城にて病没、永国寺に葬られた。法名は光屋清容。

系譜

脚注

  1. ^ 池田こういち 『肥後相良一族』新人物往来社、2005年。ISBN 4404032536  では「ながとも」、人吉市にある「人吉城歴史館」内の説明文等では「ながまさ」としている。

参考文献





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「相良長誠」の関連用語

相良長誠のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



相良長誠のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの相良長誠 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS