清野長範
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清野 長範(きよの ながのり、元亀4年(1573年)頃?[1] - 寛永11年(1634年))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。上杉氏の家臣。通称は助次郎、のちに周防守。蘆名氏の家臣平田舜範の子とされる。
- ^ 上越市史別編2「上杉文書集二」には、天正10年(1582年)以前のものとされる、清野助次郎宛と推定されている直江兼続書状が2通収録されている。1通は兼続より御用材の調達を命じられたものであり、この書状を正しく清野長範宛とするならば、少なくとも天正10年には長範は成人に達していると推定され、生年は元亀4年よりさかのぼり兼続とほぼ同世代である可能性もある。
- ^ 仕官の時期については、蘆名氏滅亡後との説もある。一方米沢藩「古代士籍」(『上杉文書』)では、謙信様衆の中に平田助次郎の名を認めるため、上杉家に仕え始めたのは謙信時代の可能性もある。
- ^ 「侍組禄席掌故」(『上杉文書』)より。特に景勝の死去に際しては、献身的な看病を行ったことが、『上杉家御年譜』の中に記載されている「上杉定勝書状」よりうかがえる。
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