戦国時代:戦国大名の家中における男色
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「日本における同性愛」の記事における「戦国時代:戦国大名の家中における男色」の解説
戦国時代の随筆「梧窓漫筆」に、「戦国の時には男色盛んに行なはれ、寵童の中より大剛の勇士多く出づ」 とあるように、戦国時代には武士の男色がますます盛んになったといわれ、戦国大名が小姓を男色の対象とした例が数多く見られる。織田信長(1534年)と前田利家・森成利(蘭丸) の例は有名だが、他にも、武田信玄(1521年)と姓不詳の小姓・源助(信玄は源助に対し別の小姓・弥七郎との関係を否定する起請文を提出している)、上杉景勝(1556年)と清野長範、伊達政宗(1567年)と片倉重綱・只野作十郎(政宗から浮気を疑われた作十郎は疑いを晴らす為、自ら腕を刀で突き血でしたためた起請文を送っている)、豊臣秀次(1568年)とその美貌が後世まで語り継がれる不破万作 などが有名な例として挙げられる。武士道と男色は矛盾するものとは考えられておらず、後の江戸時代中期に出された武士道について説いた『葉隠』にも、男色を行う際の心得を説く一章がある。 1549年に来日したフランシスコ・ザビエルは日本人を賞賛しながらも、許すことができない罪悪として男色を挙げ、ザビエルを保護し布教を許した山口の大名、大内義隆がもつ美少年の数の多さに驚き嘆いている。大内も当初はザビエルに男色などを非難されたことに立腹し、布教の許可は下さなかった。また天正7年(1579年)に初来日したイタリア宣教師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、日本人に見られる罪悪は色欲に耽ることだとして、特に男色については、「彼らはそれを重大なことと考えていないから、若衆たちも関係のある相手もこれを誇りとし、公然と口にし、隠そうとはしない」と書いている。時代は江戸初期に跨るが元和5 (1619)年に来日したフランソワ・カロンも、「貴族の中には僧侶並に男色に汚れている者があるが、彼らはこれを罪とも恥ともしない」と言っている。
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