長井時秀
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長井 時秀(ながい ときひで、生没年不詳)は、鎌倉時代中期の人物、鎌倉幕府の御家人[4][5]。長井泰秀の子[4][5]。母は佐々木信綱の娘[5]。妻は安達義景の娘。大江時秀とも呼ばれる[5]。法名は西規[4]。長井氏は大江広元の次男・時広を始祖とする鎌倉幕府の有力御家人であり[6]、北条氏得宗家の烏帽子親関係による一字付与による統制下にあったとみられ[7]、足利氏でいう足利家時[8]のように、「時」の字は北条氏得宗家当主よりその通字を受けたものと考えられる[注釈 2]。
注釈
- ^ 父・泰秀、子・宗秀がともに18歳で叙爵していることから、五位相当の宮内権大輔に任官した正元元年(1259年)当時18歳であったと推定され[1]、逆算すると1242年生まれである。
- ^ 紺戸論文内の系図[9]では、北条泰時から一字を受けた泰秀と、北条時宗より一字を受けた宗秀との間に位置する時秀は、経時(在任:1242年-1246年)または時頼(在任:1246年-1256年)と烏帽子親子関係を結んだとしているが、生誕年は1242年とされており(別途脚注参照)、これに基づけば後者である可能性が高い。
- ^ 元服にあたっては、それまでの童名(幼名)が廃されて、烏帽子親から仮名(通称名)と実名(諱)が与えられるが、その際にその実名の一字(偏諱)の付与がなされることが多い[14]。
- ^ 山門(延暦寺)と寺門(園城寺)の紛争が起きたのに伴い、大曾禰長泰とともにその調停使として上洛している[4][10]。
- ^ 『関東評定衆伝』弘安5年条[1]
出典
- ^ a b 前田治幸 著「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」、阿部猛 編『中世政治史の研究』日本史史料研究会、2010年。別表1註釈(8)。/所収:田中 2013, p. 226
- ^ 従五位上、刑部少輔、引付衆「最上院本大江系図」『寒河江市史 大江氏ならびに関連史料』p.35
- ^ 『尊卑分脉』安達義景の女子の一人に「大江宗秀母」(=長井宗秀の母)とある。
- ^ a b c d e f g h 安田 1990, p. 432, 下山忍「長井時秀」
- ^ a b c d e f g h 佐々木文昭「長井時秀」『朝日日本歴史人物事典』 。
- ^ 「長井氏」『世界大百科事典』(第2) 。
- ^ 山野 2012, p. 163。「北条氏#北条氏による一字付与について」も参照のこと。
- ^ 小谷俊彦「北条氏の専制政治と足利氏」『近代足利市史 第一巻』足利市、1977年。/所収:田中 2013, p. 131
- ^ 紺戸1979, p.15系図.
- ^ a b 「長井時秀」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 。
- ^ 『大日本史料』5編23冊143頁
- ^ 寳治元年十一月大十五日甲子。天晴。鶴岡八幡宮放生會也。…… 後陣随兵 前大藏權少輔 城九郎 長井太郎 上野三郎 ……
- ^ 紺戸 1979, p. 16。『吾妻鏡』では1257年(正嘉元年)10月1日条から「長井太郎時秀」の記載が確認できる。
- ^ 山野 2012, p. 162.
- ^ 紺戸 1979, p. 16.
- ^ 「吾妻鏡」12月1日条、『史料総覧』5編904冊808頁
- ^ 「吾妻鏡」10月30日条、『史料総覧』5編905冊23頁。
- ^ 「外記日記」「天台座主記」、『史料総覧』5編905冊97頁
- ^ 「勘仲記」『史料総覧』5編905冊267頁。
- ^ 「関東評定伝」『史料総覧』5編905冊39頁
- ^ 「関東評定伝」『史料総覧』5編905冊106頁
- ^ 「関東評定伝」「続本朝通鑑」、『史料総覧』5編905冊119頁
- ^ 国立歴史民俗博物館所蔵「造六条八幡新宮用途支配事」、『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.390-397
- ^ 『建治三年記』12月2日条。
- ^ 『関東評定衆伝』弘安7年条。
- ^ 細川 2000, 巻末基礎表p.90-91.
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