大崎半島の開拓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 22:14 UTC 版)
第二次世界大戦後、それまで酸性の土壌と水利の悪さから、ほとんど開拓の進んでいなかった大崎半島の開拓が始まった。これは食糧増産と帰農促進が目的で、サツマイモとハダカムギを主として生産した。1962年(昭和37年)頃からサツマイモの需要減とハダカムギの価値低下を受け、収入減少につながった。こうしたこともあり、大崎半島の開拓は計画面積の8分の1しか進まなかった。 そこで当時の浜島町は、町の中心街である浜島に次いで大崎半島の観光開発を企画、1963年(昭和38年)にキジ狩園を開設する。また、日本楽器(ヤマハ)が大崎半島でマリーナ開発に名乗りを挙げ、浜島町や三重県庁の開発計画も吸収し、滞在型のレクリエーション基地の建設を目指すこととなった。 日本楽器は1965年(昭和40年)1月から土地の買収、取り付け道路やホテルの建設を開始した。土地買収の対象となった開拓農家32戸のうち、30戸が買収に応じるなど陸側の開発は順調に進んだが、海側は漁業権やヨットの航路設定で折り合いが難しく、計画縮小を余儀なくされた。 1967年(昭和42年)11月、ヤマハリゾート「合歓の郷」が開業した。浜島町当局は、浜島町民の雇用や地元からの食材等の購入を求めたが、職種はインストラクターなど専門職であったため素人である地元民の雇用はごく一部に限られた。物資調達も量と質が重視されたため初期に浜島町内の業者から仕入れたにとどまった。また、観光客にとっては合歓の郷内でサービスがすべて充足できるようになっており合歓の郷外の町内の店舗などを利用する必要もなかった。このため町当局のもくろみは外れ、町の経済効果は限定的となった。 1987年(昭和62年)9月、近鉄グループが1960年(昭和35年)から土地買収を初めていた地に「近鉄浜島カンツリークラブ」が開業した。
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