合戦までの経過
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永禄3年(1560年)5月12日、今川義元は大軍を率いて尾張を目指し、沓掛城に入った。今川軍は、翌5月18日(6月11日)夜、松平元康(徳川家康)が指揮を執る三河勢を先行させ、大高城に兵糧を届けさせた。一方の織田方は軍議したが信長は雑談するばかりで、重臣は「運の末には、知恵の鏡も曇る」と引き去った(『信長公記』)。『信長公記』天理本では、清洲城に篭城をとの家老衆の進言を除け、信長は国境での迎撃を採用したとする。 翌5月19日(6月12日)3時頃、松平元康と朝比奈泰朝は織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始する。前日に今川軍接近の報を聞いても動かなかった信長はこの報を得て飛び起き、幸若舞『敦盛』を舞った後に出陣の身支度を整えると、明け方の午前4時頃に居城の清洲城より出発(『信長公記』「今川義元討死の事」)。小姓衆5騎のみを連れて出た信長は8時頃、熱田神宮に到着。その後、軍勢を集結させて熱田神宮に戦勝祈願を行った(『信長公記』)。 10時頃、信長の軍は鳴海城を囲む砦である善照寺砦に入っておよそ2,000人から3,000人といわれる軍勢を整えた。一方、今川軍の先鋒松平隊の猛攻を受けた丸根砦の織田軍500人余りは城外に討ってでて白兵戦を展開、大将の佐久間盛重は討死した。鷲津砦では篭城戦を試みたが飯尾定宗、織田秀敏が討死、飯尾尚清は敗走したが一定の時間稼ぎには成功した。大高城周辺の制圧を完了した今川軍は、義元率いる本隊が沓掛城を出発し、大高城の方面に向かって西に進み、その後進路を南に取った。 (奇襲説)一方の織田軍は11時から12時頃、善照寺砦に佐久間信盛以下500人余りを置き、2,000人の兵で東方に迂回して出撃。鳴海から見て東海道の東南に当たる桶狭間の方面に敵軍の存在を察知し、東南への進軍を開始した。 (正面攻撃説)信長は田の間の細道を行き中嶋砦まで2,000人で進軍した。
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