合戦までの経過とは? わかりやすく解説

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合戦までの経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 15:35 UTC 版)

桶狭間の戦い」の記事における「合戦までの経過」の解説

永禄3年1560年5月12日今川義元大軍率いて尾張目指し沓掛城入った今川軍は、翌5月18日6月11日)夜、松平元康徳川家康)が指揮執る三河勢を先行させ、大高城兵糧届けさせた。一方織田方は軍議したが信長雑談するばかりで、重臣は「運の末には、知恵の鏡も曇る」と引き去った(『信長公記』)。『信長公記天理本では、清洲城篭城をとの家老衆の進言除け信長国境での迎撃採用したとする。 翌5月19日6月12日3時頃、松平元康朝比奈泰朝織田軍の丸根砦鷲津砦攻撃開始する前日今川軍接近の報を聞いても動かなかった信長はこの報を得て飛び起き幸若舞敦盛』を舞った後に出陣身支度整えると、明け方午前4時頃に居城清洲城より出発(『信長公記』「今川義元討死の事」)。小姓衆5騎のみを連れて出た信長は8時頃、熱田神宮到着その後軍勢集結させて熱田神宮戦勝祈願行った(『信長公記』)。 10時頃、信長の軍は鳴海城を囲む砦である善照寺砦入っておよそ2,000人から3,000といわれる軍勢整えた一方今川軍先鋒松平隊の猛攻受けた丸根砦織田500余り城外討ってでて白兵戦を展開、大将佐久間盛重討死した。鷲津砦では篭城戦試みた飯尾定宗織田秀敏討死飯尾尚清敗走した一定の時間稼ぎには成功した大高城周辺制圧完了した今川軍は、義元率い本隊沓掛城出発し大高城方面向かって西に進みその後進路を南に取った。 (奇襲説一方織田軍は11時から12時頃、善照寺砦佐久間信盛以下500余りを置き、2,000人の兵で東方迂回して出撃鳴海から見て東海道東南に当たる桶狭間方面敵軍存在察知し東南への進軍開始した。 (正面攻撃説)信長は田の間の細道行き中嶋砦まで2,000人で進軍した

※この「合戦までの経過」の解説は、「桶狭間の戦い」の解説の一部です。
「合戦までの経過」を含む「桶狭間の戦い」の記事については、「桶狭間の戦い」の概要を参照ください。

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