小越の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/15 05:40 UTC 版)
伊東軍は1月21日に島津軍から攻撃を受けるも、飫肥城を包囲し昼夜問わず攻め立てた。飫肥城内ではすでに兵糧が不足し始めていたため、酒谷城主柏原常陸守は北郷図書助らと評議し飫肥本城に援軍を送ることを決定。2月21日早朝、土持頼綱を大将として北郷軍6000に島津忠親軍7000を加えた13000が阿田越に集結し、更にこれを迎えるため飫肥城内の島津軍も大迫口に出陣した。これに対して島津軍が小越西方の竹野に差し掛かったことを確認した伊東軍は、まず落合兼置、木脇祐守らが小越に向かうと伊東祐安、祐青らもこれに続き、鉄砲の音を合図として島津軍に向かって一斉に攻め掛かった。島津軍も応戦するも徐々に小越の辺りで伊東軍が島津軍を包囲する形となり、伊東祐安、木脇祐守らが敵勢を手元に引き付け島津軍の隊伍を乱し攻め立てると、落合兼置、川崎主税助、山田宗昌らが次々と首級をあげ戦局は伊東軍に傾いていった。さらに伊東軍の長倉伴八郎らが島津軍を横合から突撃し島津軍はたちまち壊滅状態に陥り酒谷方面へ敗北遁走し始めた。伊東軍はなおもこれを追撃すると島津軍の将を次々と討ち取っていき、酒谷城近くまで攻め寄せたところで兵を引き上げた。
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