伊東家家臣時代
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天文13年(1544年)、日向にて伊東氏家臣の新山城主・山田宗継の子として生まれる。 永禄元年(1558年)、飫肥を巡る北郷氏、豊州島津氏との合戦において初陣を飾ると、敵将・亀沢豊前守を組み打ちの末に討ち取る。亀沢は島津方でも名の知れた武将だったため、初陣にしてこれを討ち取った宗昌は大いに恐れられたという。永禄11年(1568年)の小越の戦いでも北郷方の勝岡城主・和田民部少輔を討ち取ったが、和田は永禄10年(1567年)の合戦で宗昌の父・宗継を討ち取った武将だったため、宗昌にとっては敵討であった。永禄10年には伊東氏による犬興行にも参加している。 天正5年(1577年)、伊東義祐が薩摩国の島津氏の侵略により一時衰退し、一時的に豊後国の大友宗麟へ退去すると、翌天正6年(1578年)、大友宗麟は伊東氏の救援を名目に日向へと出兵。義祐らを追って翌春に豊後へ入っていた宗昌もこれに先立って日向に戻り、6月には長倉祐政らと共に新納石城を修築、伊東家家臣団と共に島津軍からの侵略に備えた。
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