長崎商法のさらなる拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 23:47 UTC 版)
「薩摩藩の長崎商法」の記事における「長崎商法のさらなる拡大」の解説
薩摩藩財政難の要因のひとつが重豪、斉宣の両隠居が江戸住まいをしていることにあった。薩摩藩の財政当局者は、本国である薩摩で隠居が出来れば藩経費の大幅な削減が期待できると主張していた。実際、重豪自身も文政2年(1819年)、幕府に対して薩摩で隠居生活を送りたいとの願書を提出していたが却下されており、斉宣も同様の願いを拒否されていた。そこで重豪は「重豪、斉宣両隠居続料」の確保も薩摩藩の長崎商法拡大の名目のひとつとしていった。 文政3年(1820年)3月、薩摩藩は琉球国王から嘆願がなされたとして、老中水野忠成に対して長崎における唐物販売の品目拡大を要請した。これは文政元年(1818年)の許可では琉球援助に不十分であるとして、貿易額の上限は年額銀2070貫目に据え置くものの、玳瑁、辰砂、大黄など7種の唐物から4~5種を新たに販売許可してもらいたいというものであった。これは販売品目を増やすことによって、中国での仕入れが不調で品欠けを起こす危険性を減らすとともに、また品目の増加は長崎での唐物販売促進にもなると判断したためであった。 文政3年(1820年)8月、老中水野忠成は薩摩藩留守居役を呼び出し、3月の嘆願について、新たに龍脳の販売を認め、唐物販売の期限も新たに3年間の延長が認められた。その一方で幕府は抜荷をきちんと取り締まっていくよう命じた。 文政5年(1822年)4月には唐物方の体制強化が行われ、文政6年(1823年)には販売許可品目の見直しが行われ、福州手薄紙、鉛、緞子、厚朴、玳瑁等の9品目の販売を中止する代わりに、鼈甲の販売が認められ、販売継続となったてぐす等5品とともに計6品が販売許可品目となった。しかしこのような長崎商法の拡大、体制の整備にもかかわらず、運営面では大きな課題を抱えていた。
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