琉球貿易品の長崎商法
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「薩摩藩の天保改革」の記事における「琉球貿易品の長崎商法」の解説
詳細は「薩摩藩の長崎商法」を参照 前述のように琉球貿易で入手した中国製品を、薩摩藩が長崎で販売を行う薩摩藩の長崎商法は、文化7年(1810年)に5年間の期限で幕府から許可された。薩摩藩はその後も許可期限の延長、そして対象品目、金額の拡大運動を続けた。薩摩藩側が長崎商法拡大の名目としたのが干ばつ、台風の影響で飢饉に襲われた琉球王国の窮状と、19世紀前半、しばしば琉球近海に出没するようになっていた欧米船による外圧に対する救援であった。薩摩藩の天保改革開始以前、重豪を中心とした対幕府交渉によって薩摩藩の長崎商法における対象品目、金額は拡大を続けた。琉球貿易の当事者である琉球王国に対しては、貿易で入手した中国産品の薩摩藩一手買い入れが進められていく。また薩摩藩は長崎商法に天草出身の豪商、石本家と連携して、長崎での商取引の円滑化に成功する。 調所は改革開始前から、両隠居続料掛として薩摩藩の長崎商法に深く関与していた。薩摩藩が長崎で琉球貿易で入手した中国産品の販売を拡大することは、当然、正規の長崎会所での貿易を圧迫することに繋がる。この正規貿易ルート圧迫に対する反発や懸念を、調所ら薩摩藩関係者は幕閣、長崎奉行等、会所貿易関係者に対する賄賂攻勢で沈黙化させていった。 藩政改革の改革主任となった後の調所は、更に幕閣、長崎奉行関係者への工作を強化していく。調所の工作が功を奏し、天保5年(1834年)には薩摩藩の長崎商法は20年間の延長が認められた。その一方で薩摩藩は琉球貿易で得た中国産品の更なる販路拡大のため、大規模な抜荷に手を染める。薩摩藩が抜荷品として中国製品を売り抜けたのは主に新潟など北国筋であった。新潟などで漢方薬や朱など中国産品を売り払い、その対価として松前藩産の昆布等俵物を大量に仕入れ、琉球を通じて中国に流れるルートが形成されていた。 このような中で天保6年(1835年)10月の長岡藩領村松浜での薩摩船難破をきっかけに、第一回唐物抜荷事件が摘発され、薩摩藩が行ってきた北国筋での抜荷の実態が明るみに出た。幕府は薩摩藩に対する締め付けを強化し、長崎奉行からは薩摩藩の長崎商法が会所貿易を著しく圧迫しているとの報告書も上げられていた。当時、幕閣で主導権を握りつつあった老中水野忠邦は薩摩藩の長崎商法の停止を決断し、天保7年(1836年)6月、水野は薩摩藩主斉興に直接、2年後の薩摩藩の長崎商法の停止を通告する。 長崎商法の停止は薩摩藩にとって収入減に直結するため、薩摩藩側は大御所家斉の正妻、広大院の威光を利用すべく大奥にまで工作の手を広げるなどして抵抗したが、水野は抵抗を撥ね退け、天保10年(1839年)、薩摩藩の長崎商法は停止された。長崎商法の停止は、前述の日本各地で広まった砂糖生産による砂糖価格の下落とともに大幅な藩収の減少をもたらし、改革の推進に悪影響を与えた。
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