琉球貿易の制約と薩摩藩、琉球王国とは? わかりやすく解説

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琉球貿易の制約と薩摩藩、琉球王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 18:10 UTC 版)

薩摩藩の長崎商法」の記事における「琉球貿易の制約と薩摩藩、琉球王国」の解説

江戸幕府1610年代後半以降貿易に対して制限かつ統制を行う姿勢強めていく。その結果長崎幕府管理下において貿易を行うという独占的な貿易体制作り上げられる。その一方で幕府寛永10年1633年)にポルトガル船の日本来航禁じるが、寛永16年1639年)、幕府これまでポルトガル船が日本もたらしてきた生糸漢方薬種などの商品を、琉球王国対中国貿易入手していくよう薩摩藩側に命じた。つまり幕府長崎での貿易補完する形での琉球貿易認めたことになる。 長崎での貿易補完的な位置づけとなった琉球貿易には、幕府側から制限加えられるうになる寛文元年1661年)、長崎貿易との競合により長崎からの輸入品価格低下することを防止するとして、薩摩藩側に白糸紗綾以外の琉球貿易輸入品他領販売禁止命じた。そして貞享3年1686年)、幕府外国への金銀流出抑制することを目的として琉球貿易総額規制命じ正徳5年1715年)には制限額がさらに引き下げられた。このような幕府からの品目制限貿易額総額規制対し薩摩藩側は品目制限貿易総額規制緩和要望し続けていた。 薩摩藩慢性的な財政難悩まされていたが、琉球王国財政難もまた厳しさ増していた。薩摩藩琉球貿易にかかる経費半分支出し貿易による利益を得るというやり方取っていたが、19世紀には薩摩藩琉球王国財政難によって貿易資金である渡唐銀の確保も困難となる状況陥ったそのような状況追い打ちをかけたのが肝心貿易不振であった前述のように薩摩藩白糸紗綾のみ藩外での販売幕府から認められていたが、18世紀前半以降日本国内での産業発達結果国内産の生糸織物市場流通するようになっていた。そして18世紀後半には中国国内での白糸紗綾生産高減少し、さらに品質低下していた。国内産の流通始まった中で中国産の値段高くなりしかも品質低下したのだから、琉球貿易によって入手した中国製白糸紗綾売れ行き悪化した。 もちろん琉球王国貿易不振対す対策進めていた。これまでの日本から持ち込んだ銀で白糸紗綾購入して輸入するやり方から、昆布などの俵物輸出して漢方薬種やその他中国産品引き換える形へと貿易方法をシフトさせていた。このため天明5年1785年以降長崎会所対中国貿易用に独占的に仕入れ行っていた俵物が、抜荷によって薩摩等を経て琉球にも流れるようになっていた。そして享和元年1801年)、琉球側は薩摩に対して販売不振に陥っていた白糸紗綾ではなく漢方薬種を藩外に販売すれば琉球困窮状態も改善するではないか提案していた。

※この「琉球貿易の制約と薩摩藩、琉球王国」の解説は、「薩摩藩の長崎商法」の解説の一部です。
「琉球貿易の制約と薩摩藩、琉球王国」を含む「薩摩藩の長崎商法」の記事については、「薩摩藩の長崎商法」の概要を参照ください。

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