琉球貿易の制約と薩摩藩、琉球王国
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「薩摩藩の長崎商法」の記事における「琉球貿易の制約と薩摩藩、琉球王国」の解説
江戸幕府は1610年代の後半以降、貿易に対して制限かつ統制を行う姿勢を強めていく。その結果、長崎で幕府の管理下において貿易を行うという独占的な貿易体制が作り上げられる。その一方で幕府は寛永10年(1633年)にポルトガル船の日本来航を禁じるが、寛永16年(1639年)、幕府はこれまでポルトガル船が日本にもたらしてきた生糸や漢方薬種などの商品を、琉球王国の対中国貿易で入手していくよう薩摩藩側に命じた。つまり幕府は長崎での貿易を補完する形での琉球貿易を認めたことになる。 長崎での貿易の補完的な位置づけとなった琉球貿易には、幕府側から制限が加えられるようになる。寛文元年(1661年)、長崎貿易との競合により長崎からの輸入品価格が低下することを防止するとして、薩摩藩側に白糸、紗綾以外の琉球貿易輸入品の他領販売禁止を命じた。そして貞享3年(1686年)、幕府は外国への金銀流出を抑制することを目的として琉球貿易の総額規制を命じ、正徳5年(1715年)には制限額がさらに引き下げられた。このような幕府からの品目制限、貿易額の総額規制に対し、薩摩藩側は品目制限と貿易の総額規制の緩和を要望し続けていた。 薩摩藩は慢性的な財政難に悩まされていたが、琉球王国の財政難もまた厳しさを増していた。薩摩藩は琉球貿易にかかる経費の半分を支出し、貿易による利益を得るというやり方を取っていたが、19世紀には薩摩藩と琉球王国の財政難によって貿易資金である渡唐銀の確保も困難となる状況に陥った。そのような状況に追い打ちをかけたのが肝心の貿易の不振であった。前述のように薩摩藩は白糸、紗綾のみ藩外での販売を幕府から認められていたが、18世紀前半以降、日本国内での産業発達の結果、国内産の生糸や織物が市場に流通するようになっていた。そして18世紀後半には中国国内での白糸、紗綾の生産高が減少し、さらに品質も低下していた。国内産の流通が始まった中で中国産の値段が高くなりしかも品質も低下したのだから、琉球貿易によって入手した中国製白糸、紗綾の売れ行きは悪化した。 もちろん琉球王国は貿易の不振に対する対策を進めていた。これまでの日本から持ち込んだ銀で白糸、紗綾を購入して輸入するやり方から、昆布などの俵物を輸出して、漢方薬種やその他中国産品と引き換える形へと貿易方法をシフトさせていた。このため、天明5年(1785年)以降、長崎会所が対中国貿易用に独占的に仕入れを行っていた俵物が、抜荷によって薩摩等を経て琉球にも流れるようになっていた。そして享和元年(1801年)、琉球側は薩摩に対して販売不振に陥っていた白糸、紗綾ではなく、漢方薬種を藩外に販売すれば琉球の困窮状態も改善するのではないかと提案していた。
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