庄内藩の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 21:27 UTC 版)
百姓は困窮し、領内では宝暦5年秋の9月ごろから深刻な米不足となり、酒田では1300人の困窮者の救済願いが出された。11月には他国への穀物持ち出しは一切禁止となり、12月には酒造が禁止され、米価は13俵で金10両に暴騰した。 翌6年には、郷方町方の貧民が飢渇状態に陥り多くの餓死者を出した。藩は御用籾1万400俵(3斗5升俵)のうち6115俵を10両につき17俵で売り出したほか、同年3月に幕府から1万両を借りて家中に高100石につき5両の割合で貸与した。鶴ヶ岡、酒田に米500俵ずつ、八組郷中の各組に300俵ずつ、計3400俵を貸し渡し、町方・郷方には粥座を設けて施粥をした。 藩は松皮餅の製法を村々に配布して粮物として食べることを推奨した。しかし、領民は飢えをしのぐために様々な物を食べたが、冬は降雪・積雪のために粮物を探せず、餓死する者が多かった。町方では小糠や粉米で命をつないだという記録も残されている。
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