酒井忠恒 (出羽松山藩主)
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永16年8月8日(1639年9月5日) |
死没 | 延宝3年8月6日(1675年9月25日) |
別名 | 小五郎 |
戒名 | 光顔院殿覚誉道専受法大居士 |
墓所 | 東京都新宿区袋町光照寺 |
官位 | 従五位下、大学頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 出羽松山藩初代藩主 |
氏族 | 左衛門尉酒井家分家 |
父母 |
父:酒井忠勝 母:西田九郎左衛門の養女・奥野氏 |
兄弟 | 忠当、忠俊、忠恒、忠貫、忠盛、忠直、忠興、山名恒豊 |
妻 |
正室:牧野忠成の娘 側室:吉田内膳の娘・溝口氏 |
子 | 忠予 |
酒井 忠恒(さかい ただつね)は、出羽松山藩の初代藩主。左衛門尉酒井家分家初代。庄内藩初代藩主・酒井忠勝の三男。
寛永16年(1639年)8月8日生まれ。正保4年(1647年)12月11日、本家の庄内藩から2万石を分与されて、支藩である松山藩を立藩した。駿府加番や江戸城二の丸の石垣普請、酒井氏の菩提寺である心光寺の創建に努めた。延宝3年(1675年)8月6日(または1674年)に死去し、跡を長男・忠予が継いだ。
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