三倉鼻とは? わかりやすく解説

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三倉鼻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/13 15:05 UTC 版)

三倉鼻(みくらはな)とは、秋田県三種町八郎潟町にまたがる山である。三湖伝説にまつわる伝説など、数々の伝説が語られている。三倉鼻の名前の由来は、『三倉鼻由来』[1]によれば、八郎太郎によって助けられた夫殿は、その後長者になり3つの倉を建てたからだという。糠を捨てた場所は小山になり糠森になった[2]


  1. ^ タツ子伝説と三倉鼻由来考 」『北方風土』第10号、1985年、p.55-61
  2. ^ a b 『八郎潟は心のふるさと』、安田貞則、2017年、p.53
  3. ^ a b 小野 1936, p. 93.
  4. ^ 『秋田の文芸と風土』、佐々木久春編、無明舎出版、1999年
  5. ^ 『八郎潟町史』(1977年)、p.478
  6. ^ a b c 秋田魁新報「南秋湖東部の名勝(1)」、小野金治、昭和10年6月20日
  7. ^ 八郎潟の研究』、八郎潟学術調査会編、1965年、p.654
  8. ^ a b c 小野 1936, p. 94.
  9. ^ 佐竹義和公頌徳集 全』、天樹院公頌徳集編纂会、1921年、p.118-119
  10. ^ 小野 1936, p. 95.
  11. ^ 小野 1936, p. 95-96.
  12. ^ 小野 1936, p. 99-110.
  13. ^ 秋田魁新報「南秋湖東部の名勝(2)」、小野金治、昭和10年6月21日
  14. ^ 小野 1936, p. 98.
  15. ^ 小野 1936, p. 105.
  16. ^ 小野 1936, p. 96-97.
  17. ^ 『種蒔く人』研究-秋田の同人を中心として-、北条常久、桜楓社、1992年、p.105
  18. ^ 秋田県労農運動史』、今野賢三1954年、p.110
  19. ^ 『哀草果村里随筆 第一巻』、結城哀草果、中央書院 、1973年、p.103
  20. ^ a b 『秋田・八郎湖畔の歴史散歩』、佐藤晃之輔、秋田文化出版、2018年、p.58
  21. ^ 大潟村誕生
  22. ^ 八郎潟町のページ
  23. ^ 『秋田・八郎湖畔の歴史散歩』、佐藤晃之輔、秋田文化出版、2018年、p.57-58,168
  24. ^ a b 『羽州街道 「菅江真澄」も歩いた歴史の道』CD-ROM版、NTT東日本秋田支店、2001年
  25. ^ 小野 1936, p. 140.
  26. ^ 『南面岡碑銘 盲花見車』、小野金治、1937年、p.5-7
  27. ^ 碑に刻まれている漢文の和訳は「陸軍大将兼左大臣二品(ぼん)大勲位熾仁親王篆額(てんがく) 八龍湖は北方の名勝たり。独り風色の愛すべきのみならず、利沢生民に被る事も広く且大なり。今茲(ことし)秋九月十四か車駕(しゃが)秋田県に幸せられ、蹕(ひつ)を湖上の行宮に停(とど)め給ふ。湖は周囲二十五里、牡鹿(おが)島その西、本山、真山、寒風山鼎立(ていりつ)して秀を争う。而して東南は平遠にして、稲田萩浦(とうでんてきほ)水を循(したが)って環繞(かんじょう)す。其の欠口一派海に注(そそ)ぐ所、長橋二千尺を架す。舟楫(しゅうしゅう)来往し、釣する者、弋(よく)するもの、網を投ずるもの、藻を刈り拾うものと、眠鴎飛鷔(みんおうひぼく)の烟波浩蕩(えんぱこうとう)の中に在るとは苑然(えんぜん)一幅の活風図なり。 是日(このひ)日本県五十邨(むら)の豪農柳原英之助場を宮側に設け、竹籠持て鴈(かり)・鶩(あひる)・鷺(さぎ)・鵜(う)・鷭(ばん)・鳬(けり)・鴨(かも)、を養い、水盤もて鱈(たら)・鰡(ぼら)・鯉(こい)・烏賊(いか)・鰈(かれい)・鯊(はぜ)・鰻(うなぎ)・蟹(かに)・龜(かめ)・鼈(すっぽん)・蛤(はまぐり)・螺(にな)を養う。皆湖中に産する所にして、大案に土を盛り、木を刻(きざ)み、全湖の地形及び雪中の漁労の景状をうつす。網罟(もうこ、あみ)・梁筍(りょうこ)・蓑笠(みのかさ)・苓奢皚然 (れいしゃがいぜん)一白たり。 其の風突(かぜとつ)として火を吹けば、湿薪燃えず。氷を鑿(うが)って網を沈むるに、亀手瑟縮(きしゅしつしゅく)して、観る者をして、凛々肌膚(りんりんきふ)に粟を生ぜしむ。夫の細民の嫁穡(かしょう)は粒々辛苦たり。昔人為に豳風(ひんぷう)七月の図を製(つく)り、今は漁労をもて活と為す。其の辛苦甚しきもの有らん。則ち本場陳(ちん)ずる所の片羽隻鱗(せきりん)も亦規風(きふう)を寓す。 皇上嘉尚(かしょう)し給ひ、金若干円を賚(たま)ふ。英之助石に刻み栄典を不朽に伝へんと欲し、県吏に就いて文を請ふ。此の地は旧(もと)三倉鼻と称す。余は其の雅馴(がじゅん)ならざるを以て、名を南面岡(ひづらおか)と改め係くるの銘詩を以ってす。曰く…(漢詩)明治十四年季冬十一月醸」である。後半部分の南面岡と名付けた理由の漢詩和訳は本文に前掲している
  28. ^ 小野 1936, p. 141.
  29. ^ a b 『かすむつきほし』、『菅江真澄全集 第3巻』、内田武志 宮本常一、1978年、未來社、絵図(667) 解説
  30. ^ 第三期 新秋田叢書4『羽陰温故誌』、近藤源八編著、1977年、p.106
  31. ^ a b 『名勝男鹿』、小野進、男鹿保勝会、1932年、p123-124
  32. ^ 八郎潟町の地名p.53
  33. ^ 小野 1936, p. 39-40.
  34. ^ 八郎潟干拓工事|大潟村百科事典
  35. ^ 『菅江真澄全集第三巻』、未来社、1972年、p.312
  36. ^ 子孫の工藤氏の講演によれば菩提寺の常福院の過去帳で、工藤家は初代から3代目まで「学内」を名乗っており、望湖亭は初代学内が開業したものである。そして、文学に興味を持っていたのは2代目学内であった。(『高嶺星』19号、2017年、八郎潟町歴史と文化を語る会)
  37. ^ a b c d 秋田魁新報「南秋湖東部の名勝(4)」、小野金治、昭和10年6月25日
  38. ^ 島田仙風は森岳(盛岡)の人で、大津市木曽義仲の墓がある義仲寺の住職をして後に秋田に帰る。義仲寺には松尾芭蕉の墓があり、句会が開催され多数の句碑もある。
  39. ^ 夜叉袋集落の豪農
  40. ^ 『八郎潟町史』、八郎潟町史編纂委員会、1977年、p.480
  41. ^ 第三期 新秋田叢書9『秋田繁昌記』、石井三友1977年、p.218
  42. ^ 『新秋田叢書 第3期』第15巻、新秋田叢書編集委員会、1979年、p.225-239
  43. ^ 秋田県立図書館蔵、1868年(慶応4年)
  44. ^ タツ子伝説と三倉鼻由来考」 『北方風土』第10号、1985年、p.55-61
  45. ^ この書籍は菅江真澄のように発音で漢字を入れ替えている
  46. ^ 「望湖亭」の漢詩は三倉鼻の望湖亭で八郎潟を眺めて詠んだ漢詩で「男鹿半島が鉛のように動きの無い湖水の彼方に霞んで見え柳が生えている岸辺からは釣り舟が二つ三つ 湖上に流れるともなく進んでいく(さすらいの身である私は)一杯の酒でしばしの睡りにはいったが(次第に酔いが回ってきて 自分はかの名高い中国の)洞庭湖に身を置いている心地になっていくばかりである」という意味である(『頼三樹三郎』、安藤英男、新人物往来社、1974年
  47. ^ 『県別シリーズ4 郷土資料辞典 秋田県・観光と旅』、1970年、人文社、p.36
  48. ^ 八龍湖晩望「北風吹起捲湖雲、雲裏日脚雲外透、只疑八龍将行雨、起立各向前村走、須臾雲破日開顔、萬斛黄金瀉波間、紅酣紫眩山一座、上着縹渺青螺髪、山趾漸分湖容正、望湖亭主笑相迎、玉鱠斗酒不俟謀、霜葉酡顔相輝映、五行到處皆隨縁、水枕好伴雁鷲眠、倚欄吟盡湖上景、残照全収山蒼然」(大日本地名辞書 下巻 二版
  49. ^ 第三期 新秋田叢書9『秋田繁昌記』、石井三友1977年、p.156-157
  50. ^ 第三期 新秋田叢書9『秋田繁昌記』、石井三友、1977年、p.103
  51. ^ 第三期 新秋田叢書4『羽陰温故誌 第13冊』、近藤源八、1977年、p.106-111
  52. ^ 第三期 新秋田叢書9『秋田繁昌記』、石井三友、1977年、p.215-226
  53. ^ 『秋田の文芸と風土』、秋田風土文学会、無明舎出版 、1999年、p.85-88
  54. ^ 『石井露月日記』、露月日記刊行会 、1996年
  55. ^ 『南五句集』、1955年、北島諒一、p.23
  56. ^ 『嶋田五空 俳句集』、渡部嵩、2016年、p.683-684
  57. ^ 八郎潟風土記』、石田玲水、1956年12月、p.20-25
  58. ^ 『斎藤茂吉歌集 白き山研究(補正版)』、斎藤茂吉記念館編、短歌新聞社、2001年、p.180-182
  59. ^ 歌集 白き山』(アララギ叢書第138篇)、斎藤茂吉、岩波書店、1949年、p.258-261
  60. ^ 『斎藤茂吉随行記 下巻』、板垣家子夫、 古川書房、1983年、p.332
  61. ^ 「あきた(通算10号)」、1963年(昭和38年)、館岡栗山、p.38
  62. ^ 『琴丘の民話』、琴丘町教育委員会、1974年12月、p.24-25
  63. ^ 『八郎潟町史』(1977年)、p.509
  64. ^ 七座山はもとは八つのピークがあり、八郎太郎が起こした洪水で一つの山が流されピークは七つになり、また流された一つが下流の切石集落にひっかかり七折山になったとする話がある。(『二ツ井町史』、二ツ井町町史編さん委員会、1977年、p.533-534)
  65. ^ 菅江真澄『雄鹿の春風』(1810年)、『菅江真澄全集 第4巻』、内田武志 宮本常一、1973年、未來社、絵図(812) 解説には「鶏が泣けば犠牲にするのを止めて虚しく帰ってくるのが習わしである」と書いている
  66. ^ 『琴丘の民話』、琴丘町教育委員会、1974年12月、p.22-23
  67. ^ 『歴史・民俗をたずねて』、平塚重光、1987年、p.21-23
  68. ^ 三種町琴丘公民館所蔵
  69. ^ 『おがのはるかぜ』、『菅江真澄全集 第4巻』、内田武志 宮本常一、1973年、未來社、絵図(812) 解説
  70. ^ 『ゆきのみちのくゆきのいでわじ』、『菅江真澄全集 第3巻』、内田武志 宮本常一、1978年、未來社、p.313
  71. ^ 『雨の神―信仰と伝説』、高谷重夫、民俗民芸双書、1984年、p.232-233
  72. ^ 『琴丘の民話』、琴丘町教育委員会、1974年12月、p.20-22
  73. ^ 『秋田県謎解き散歩』、野添憲治、新人物往来社
  74. ^ 小野 1936, p. 124.





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