田沢湖の辰子伝説
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田沢湖町院内金ヶ澤の常光坊の娘に金靏子という娘がいた。今日一般には、田沢湖のヒロインは辰子(タツ子)と呼ばれている。これは、金靏子(鶴子)が16-17歳の若さを保つために、龍と化して田沢湖の主になったことが語り継がれているうちに龍子に変化したものと考えられる。 辰子姫の名前の変遷年執筆者文献名前1735年(享保20年)佐藤六兵衛 縁起書抜 金が沢常光坊ノ娘、カメツルコ 1735年(享保20年)佐藤利兵衛 田沢鳩留尊仏菩薩縁記 亀靏 1769年(明和6年)富永茅斎 田子神祠 益戸滄洲先生配亭記 タツ子 1798年(寛政10年)人見蕉雨 黒甜瑣語 神成沢の常厳坊が女、隺子(つるこ) 1823年(文政7年)佐竹義文 養老紀行 金鶴といえる麗人 1824年(文政8年)菅江真澄 月の出羽路 楂湖(うききのかた)の金鶴子 1858年(安政5年) 三倉鼻略縁記 龍子 1868年(慶応4年) 三倉鼻名所記 靏子 1869年(明治2年) 三倉鼻由来 靏子 1880年(明治13年)石井忠行 伊豆園茶話 神鳴沢の百姓三之允の娘(又は、石神と言う所の)神鶴子 1883年-1903年(明治16-36年) 羽陰温故誌 鶴子 1911年(明治44年)千葉源之助 田沢湖案内 院内村神成沢の三之丞家の一人娘辰子(一説には常光坊の娘鶴亀、又は金鶴) 田沢湖伝説の最も古いものを残している亨保時代の『田沢鳩留尊仏菩薩縁記』には、八郎太郎の逢瀬や三湖伝説が一連のものであることは語られていない。そして、その関連を付けたのは武藤鉄城は修験者や熊野の語り部であるとしている。 辰子の名前の変遷については、武藤鉄城は「その湖がタッコ潟と称されたことから、女主人公のタッ子が生まれたものであると考えている。そしてタッコ潟の語源は湖畔の田子ノ木部落の名から出たものであり、更にその田子ノ木なる地名は『タッコフ』即ち『水辺に円錐形の小山がある所』を意味する石器時代の言葉から出たものと解釈している」としている。それ以前には、「金鶴子」や「亀鶴子」とされていた。その証拠に湖水唯一の吐口である潟尻川付近の近江八景の浮見堂に似た湖中にある漢槎宮の祭神は京都から「金鶴姫之命」(金鶴子様)と命名されたご本尊があるからである。 これに対し井上隆明は、八郎太郎は真言宗系の説話であるが、辰子姫は天台宗系で、現在の辰子姫の名は江戸後期の文人による当て字だとし、地元ではタッコ姫と促音で発音されることから、古くからタッコ姫→棲居地のタッコ潟→田沢湖とされたと言われてきたが、タッコは田子・田処・田所・竹生(たこう)でかんがい用水をひく湖沼の意味だろうから、タッコ潟→その主のタッコ姫でなければならないとし、「タッコ」のアイヌ語語源説を否定している。 奥州藤原氏が滅亡した後、源頼朝によって新たな東北地方の支配者として鎌倉御家人が派遣された。その時に、熊野信仰を伴っていたと考えられる。13世紀から14世紀にかけて熊野神社系の熊野語り部が、熊野神社の縁起や語り物を携えて東北地方を唱導して歩き、それが定着して各地の伝説になった。熊野系の物語の代表的なものが「義経記」で、その中に義経の妻が山形県瀬見温泉の対岸亀割で「カメツル子」を産んだとしている。別の説では義経の恋人が「皆鶴(みなつる)」である。中世の熊野系説話の女主人公が一貫して「皆鶴」から「カイツル」となり「カメツル」と変化している。「亀鶴」は中世の巫女系の説話に多い名称で、女神官である巫女にも「ツルコ」の名が多い。神社の神官から離れて、諸国をさすらいながら宗教の宣伝をした巫女はいわゆる「歩き巫女」と呼ばれ、秋田では盲目でない巫女は「アサヒイチコ」と呼ばれていた。これらの女流唱導者が辰子の物語を創作し伝えていった可能性が高い。また「八郎伝説」はそれに対して男性唱導者の熊野聖によって創作されたのではないだろうか。
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