名前の変遷
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「マヨール広場 (マドリード)」の記事における「名前の変遷」の解説
最初アラバル広場として知られていた広場は、時代の移り変わりとともにマヨール広場へと変わった。 1812年、法令によって、スペイン国内にある大きな広場は全て、スペイン1812年憲法にちなみコンスティトゥシオン広場(Plaza de la Constitución、憲法広場)に改名するよう決められた。この名称は1814年にスペイン・ブルボン家が王政復古を果たすと再び変えられ、レアル広場(Plaza Real)となった。1820年から1823年、1833年から1835年、1840年から1843年にはコンスティトゥシオン広場の名前が復活した。 1873年、共和国広場(Plaza de la República)に変わり、アルフォンソ12世が即位した1876年からミゲル・プリモ・デ・リベラ独裁政権時代の1923年までコンスティトゥシオン広場の名に戻された。スペイン第二共和政が成立した1931年から、スペイン内戦終盤までコンスティトゥシオン広場の名が採用され、その後マヨール広場となって今に至っている。
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名前の変遷
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「サンクトペテルブルク」の記事における「名前の変遷」の解説
都市の名は「聖ペテロの街」を意味する。これはサンクトペテルブルクの建設を命じたピョートル1世が自分と同名の聖人ペテロの名にちなんで付けたもので、隣国のフィンランドではサンクトペテルブルクをペテロのフィンランド語名そのままにピエタリ (Pietari) の名で呼んでいる。 当初はオランダ語風にサンクト・ピーテルブールフ (Санкт-Питер-Бурх) と呼ばれていたが、後にドイツ語風にサンクト・ペテルブルク (Санкт-Петербург) と呼ばれるようになった。ドイツ語では Sankt Petersburg であり、古典的発音の場合はザンクト・ペーテルスブルク、現在の口語発音ではザンクト・ペータスブアクと呼ばれる。最初の音が濁らず、「ブルク」の前に「ス」の入らない Санкт-Петербург (Sankt-Peterburg) は、ドイツ語名がロシア語化したもの。なお、単にペテルブルクと呼ばれることも多い。ロシア帝国の首都として長く定着していた。また、語末のgは、ドイツ語でも濁らないが、ロシア語でも語尾の有声子音は無声化されるため、ロシア人は「ペテルブルク」と発音する。このため日本のカタカナ表記でも「ペテルブルク」が「ペテルブルグ」よりも多く用いられる。 1914年、第一次世界大戦が始まり、ロシア帝国がドイツ帝国と交戦状態に入ると、ドイツ語風のサンクトペテルブルクが避けられ、ロシア語風のペトログラード (Петроград)と改められた。これはドイツ語風の「ブルク」を、ロシア語風(厳密には古代教会スラヴ語風)の「グラード」に差し替えたものであり、意味は同じである。 さらにロシア革命によりソビエト連邦が成立すると、1924年よりソ連建国の父ウラジーミル・レーニンにちなんで「レーニンの街」の意であるレニングラード (Ленинград, リニングラート)と改称され、この名称がソ連崩壊まで半世紀以上用いられた。 しかし、1991年のソ連崩壊の後、住民投票によってロシア帝国時代の現在の名称に再び戻った。ロシア人の間ではピーテル (Питер, ピーチェル) の愛称で呼ばれる。州名は従来どおりレニングラード州となっている。
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