人見蕉雨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/18 08:04 UTC 版)
人見 蕉雨(ひとみ しょうう)、ないし、人見 蕉雨斎(ひとみ しょううさい、1761年10月30日(宝暦11年10月3日) - 1804年6月29日(文化元年5月22日)[1])は、江戸時代の日本の国学者、出羽国久保田藩の藩士[2]。名は寧[3]、ないし、藤寧[2]。字は子安、通称は常治、ないし、但見とされる[2]。
様々過去の記録や伝聞を書きとどめた著書を残し、特に『黒甜瑣語(こくてんさご)』などで知られる[2]。
数え44歳で没し、善長寺に葬られた[4]。
著書
『黒甜瑣語』のほか、『蕉雨斎吟稿』[2]、『久保田城中年中行司』、『秋田紀麗』などが残されている[5]。
これらを収録した印刷本として、『人見蕉雨集 第1冊〜第5冊』が1968年に秋田魁新報社から刊行されている。
脚注
- ^ 『国書人名辞典 第4巻』岩波書店、1998年、p.117。
- ^ a b c d e デジタル版 日本人名大辞典+Plus『人見蕉雨斎』 - コトバンク
- ^ “おおいしだものがたり 第四十二話 盲(めくら)の琵琶法師(びわほうし)が大石田を救った伝説について”. 大石田町 (2016年3月25日). 2018年6月3日閲覧。
- ^ 秋田県立図書館 (2016年9月9日). “レファレンス事例詳細 人見蕉雨の戒名を知りたい。”. 国立国会図書館. 2018年6月3日閲覧。
- ^ “秋田県 矢島の神明社八朔祭 3.秋田県内の八朔祭・県外の八朔祭との比較”. 由利本荘市. 2018年6月3日閲覧。
- 人見蕉雨のページへのリンク