秋田の八郎太郎伝説
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八郎潟周辺では八郎太郎が広く信仰されていた。 三倉鼻の岩屋では乙殿権現の祠と並んで八郎太郎が祀られている。南秋田郡八郎潟町の一日市、夜叉袋、浦横、五城目、山本郡琴丘町などの広い地域から村人が酒肴持参で来て、酒盛りをしながら雨を祈った。肴は必ず鶏肉であったばかりではなく、鶏の生首を持参し、宴が盛になると岩屋の壁にその血をなすりつける。八郎は鶏が大嫌いであったから、こうして彼を怒らせ嵐を招いて雨を降らせようとした。八郎が鶏を嫌いなのは、八倉山 の麓で川をせき止めようとしたときに、いくら築いても夜明けになって鶏が鳴くと堰が崩れてしまったからだという。このため琴丘町天瀬川や八竜町芦崎では戦前まで鶏を飼わなかった。また、三倉鼻には鬢水(びんすい)入れという井戸の近くに龍神祠があって、天瀬川の人たちが11月20日を龍神の日と呼んで祭りをしている。 八郎潟は八龍湖とも呼ばれ、湖そのものが八龍の宮とされた。以下に八郎を祀った神社を挙げる。男鹿市船越の八郎神社(八龍大権現)は、潟周辺の八郎社としては最も大きいものである。1847年(弘化4年)に京都の吉田家から位を下された、神社として崇めるようになったので、それまでは小祠であったのだろう。南秋田郡八郎潟町一日市の八龍神社(八大龍王)ではこの地の漁師が講を作り、毎日2日の縁日に当人の家で講を務める、1月2日には潟端(馬場、目川、川口)の八郎潟に講員が参拝して、潟の仕事は一切休んで漁具にも神酒を供えて豊漁を祈った。南秋田郡昭和町野村の八郎神社では雨乞いが行われたこともある。1967年から始まった八郎祭りでは作り物の龍の「八郎龍」を男子が「辰子龍」を女子が担ぎ奉納する。他に、天瀬川には八龍大権現が、鯉川には八郎神社が、山谷には山神社境内に八郎神社が、鹿渡には龍神堂が(松庵寺境内にあって、男鹿市小浜の原田氏の先祖が海中から拾い上げた龍神をこの寺の和尚が貰い受けて祀ったもの。付近の漁師が龍神講をつくり祭っている)、八竜町安戸と追泊、芦崎、若美町鵜木(稲荷神社境内)、五明光(稲荷神社境内)、宮沢(眺光寺境内)、野石(八幡社境内)、八ツ面、福米沢(熊野神社境内)には八郎祠がある。八竜町富岡と久米岡には八郎神社がある。 南部や津軽では三湖物語は南祖坊と八郎太郎の物語に終始しているが、秋田ではこの物語に続いて田沢湖のタツ子との関わりが語られている。例えば、南部藩の松井道円が著したとされる『吾妻むかし物語』(元禄年間、1688-1703年)では八郎は出羽国の比内郡を潟としそこに棲み、仙北郡生(保)内の潟(田沢湖)にも棲家があり、一年おきに両湖を往復すると記述するが、この書ではタツ子の話はでてこない。それに対して、岡見知愛の『柞山峯之嵐』1744年ではタツ子の名前は出てこないが、田沢湖には八郎の妻神が棲んでいるとしている。人見蕉雨の『黒甜瑣語(こくてんさご)』 (寛政10年、1798年)ではタツ子は神成沢の常厳坊が女、隺子(つるこ)とされ田沢湖と八郎潟には水脈がつながっていて、二匹の龍は年に一度は行き来していると記される。また『黒甜瑣語』の別の記述では、春分の頃に年に一回二龍が出会う日は、湖中の氷が裂けて魚鱗にような形に祠から諏訪湖のような神渡りが起きることを地元民が見ることもあるとされている。 これらの書籍は物語の一部分が記述されているだけだが、秋田叢書に収録されている『三倉鼻略縁記』(安政5年、1858年)では、八郎太郎が竜になり南祖坊と戦って、八郎太郎がタツ子に通うまでの一連の物語が、八郎太郎が八郎潟を作る際に出会った老夫婦がいた三倉鼻の伝説などと一緒に語られている。三倉鼻とは、今の南秋田郡八郎潟町と山本郡三種町の境にある突兀とした山で、西側は八郎潟に突き出していた。現状は鉄路や道路で二分されているが、かつては険路で旅人は山越えに苦労した。老夫婦は、夫が南秋田郡八郎潟町の夫健現ノ宮、妻が山本郡三種町の姥御前大明神として祀られているが、これは出雲のアシナヅチ・テナヅチとの関連性が語られている。秋田の伝説では、八郎太郎の生まれは鹿角の草木村であるとするものが多いが、『三倉鼻略縁記』では「八郎」の生まれを南部八戸糠塚村としている。また、ヒロインのタツ子は「龍子」と記載されていて、八郎が「南蔵坊」に負け、敗走し、老夫婦を助け八郎潟を作り、そして龍子の元に通うまでの物語が、三倉鼻の峠にあった茶屋の主人が旅人に語る形で表されている。ほとんど同じ内容の書が田沢湖町の高橋氏が所蔵していた『三倉鼻由来』(明治2年、1869年)である。これらの書は幕末安政期に秋田の寺子屋の教本として使われていた。『三倉鼻由来』の最大の特徴はタツ子の名前である。『三倉鼻由来』ではそれが「靏子(つるこ)」になっており、明治2年の写本ではあるが、元はより古い時代に書かれた書物であることがわかる。秋田の寺子屋の教本として秋田県立図書館には上記2書と同じ内容の『三倉鼻名所記』という書が保管されている。この書は漢字に全てふりがながふられており、最後のページにはことわざが3つ記載されていることからも、元は寺子屋の教本として使われていたことが分かる。 昭和になってから、秋田魁新報の記者などを務めた斎藤隆介が著した創作民話『八郎』は、地元の大男「八郎」が日本海の荒波から人々を救うために自己犠牲によって八郎潟と寒風山を生み出したとする三湖伝説とは一線を画した独自の解釈に基づいており、国語教科書にも採用された。
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