秋田の八郎太郎伝説とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 秋田の八郎太郎伝説の意味・解説 

秋田の八郎太郎伝説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 02:37 UTC 版)

三湖伝説」の記事における「秋田の八郎太郎伝説」の解説

八郎潟周辺では八郎太郎広く信仰されていた。 三倉鼻岩屋では乙殿権現の祠と並んで八郎太郎祀られている。南秋田郡八郎潟町一日市夜叉袋、浦横、五城目、山本郡琴丘町などの広い地域から村人酒肴持参来て酒盛りしながら祈った。肴は必ず鶏肉であったばかりではなく生首持参し、宴が盛になると岩屋の壁にその血をなすりつける八郎大嫌いであったから、こうして彼を怒らせ嵐を招いて降らせようとした。八郎嫌いなのは、八倉山 の麓で川をせき止めようとしたときに、いくら築いて夜明けになって鶏が鳴くと堰が崩れてしまったからだという。このため琴丘町天瀬川八竜町芦崎では戦前までを飼わなかった。また、三倉鼻には鬢水びんすい入れという井戸近く龍神祠があって、天瀬川の人たちが11月20日龍神の日と呼んで祭りをしている。 八郎潟八龍湖とも呼ばれ、湖そのもの八龍の宮とされた。以下に八郎祀った神社挙げる男鹿市船越八郎神社八龍大権現)は、潟周辺八郎社としては最も大きいものである1847年弘化4年)に京都吉田家から位を下された神社として崇めるようになったので、それまで小祠であったのだろう。南秋田郡八郎潟町一日市八龍神社(八大龍王)ではこの地の漁師が講を作り毎日2日縁日当人の家で講を務める、1月2日には潟端馬場目川川口)の八郎潟に講員が参拝して、潟の仕事一切休んで漁具にも神酒供えて豊漁祈った南秋田郡昭和町野村八郎神社では雨乞いが行われたこともある。1967年から始まった八郎祭りでは作り物の龍の「八郎龍」を男子が「辰子龍」を女子担ぎ奉納する。他に、天瀬川には八龍大権現が、鯉川には八郎神社が、山谷には山神社境内八郎神社が、鹿渡には龍神堂が(松庵寺境内にあって男鹿市小浜原田氏先祖海中から拾い上げた龍神をこの寺の和尚貰い受け祀ったもの。付近漁師龍神講をつくり祭っている)、八竜町安戸と追泊、芦崎若美町鵜木稲荷神社境内)、五明光(稲荷神社境内)、宮沢(眺光寺境内)、野石八幡社境内)、八ツ面、福米沢熊野神社境内)には八郎祠がある。八竜町富岡久米岡には八郎神社がある。 南部津軽では三湖物語は南祖坊と八郎太郎物語終始しているが、秋田ではこの物語続いて田沢湖タツ子との関わり語られている。例えば、南部藩松井道円著したとされる吾妻むかし物語』(元禄年間、1688-1703年)では八郎出羽国比内郡を潟としそこに棲み、仙北郡生(保)内の潟(田沢湖)にも棲家があり、一年おきに両湖を往復する記述するが、この書ではタツ子の話はでてこない。それに対して岡見知愛の『山峯之嵐』1744年ではタツ子の名前は出てこないが、田沢湖には八郎妻神が棲んでいるとしている。人見蕉雨の『黒甜瑣語こくてんさご)』 (寛政10年1798年)ではタツ子は神成沢の常厳坊が女、隺子(つるこ)とされ田沢湖八郎潟には水脈つながっていて、二匹の龍は年に一度行き来していると記される。また『黒甜瑣語』の別の記述では、春分の頃に年に一回二龍が出会う日は、湖中の氷が裂けて魚鱗にような形に祠から諏訪湖のような神渡りが起きることを地元民が見ることもあるとされている。 これらの書籍物語一部分記述されているだけだが、秋田叢書収録されている『三倉鼻縁記』(安政5年1858年)では、八郎太郎が竜になり南祖坊と戦って八郎太郎タツ子に通うまでの一連の物語が、八郎太郎八郎潟作る際に出会った老夫婦がいた三倉鼻伝説など一緒に語られている。三倉鼻とは、今の南秋田郡八郎潟町山本郡三種町の境にある突兀とした山で、西側八郎潟突き出していた。現状鉄路道路二分されているが、かつては険路旅人山越え苦労した老夫婦は、夫が南秋田郡八郎潟町の夫健現ノ宮、妻が山本郡三種町の姥御前大明神として祀られているが、これは出雲アシナヅチ・テナヅチとの関連性語られている。秋田伝説では、八郎太郎生まれ鹿角草木村であるとするものが多いが、『三倉鼻縁記』では「八郎」の生まれ南部八戸糠塚としている。また、ヒロインタツ子は「龍子」と記載されていて、八郎が「南蔵坊」に負け敗走し老夫婦助け八郎潟作り、そして龍子元に通うまでの物語が、三倉鼻の峠にあった茶屋主人旅人に語る形で表されている。ほとんど同じ内容の書が田沢湖町高橋氏所蔵していた『三倉鼻由来』(明治2年1869年)である。これらの書は幕末安政期に秋田寺子屋教本として使われていた。『三倉鼻由来』の最大特徴タツ子の名前である。『三倉鼻由来』ではそれが「靏子(つるこ)」になっており、明治2年写本ではあるが、元はより古い時代書かれ書物であることがわかる。秋田寺子屋教本として秋田県立図書館には上記2書と同じ内容の『三倉鼻名所記』という書が保管されている。この書は漢字全てふりがながふられており、最後ページにはことわざ3つ記載されていることからも、元は寺子屋教本として使われていたことが分かる昭和になってから、秋田魁新報記者などを務めた斎藤隆介著した創作民話八郎』は、地元大男八郎」が日本海荒波から人々を救うために自己犠牲によって八郎潟寒風山生み出したとする三湖伝説とは一線を画した独自の解釈基づいており、国語教科書にも採用された。

※この「秋田の八郎太郎伝説」の解説は、「三湖伝説」の解説の一部です。
「秋田の八郎太郎伝説」を含む「三湖伝説」の記事については、「三湖伝説」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「秋田の八郎太郎伝説」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「秋田の八郎太郎伝説」の関連用語

秋田の八郎太郎伝説のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



秋田の八郎太郎伝説のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの三湖伝説 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS