秋田の産油の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 02:08 UTC 版)
現在の秋田市八橋・寺内地区は、古くから自然に油の出る場所があったようで、南北に長い八橋油田の地域を流れる川が草生津川(くそうづがわ)と呼ばれている。「くそうづ」は石油の和名であり、「臭い水」の意とされる。なお、寺内地区にある「寺内油田」(てらうちあぶらでん)という地名が関連付けて語られることがあるが、これは石油を産する油田の意味ではなく、寺社で使用する灯明のための菜種油を栽培・採取した地の意味である。 旧久保田藩の御用油商人であった千蒲善五郎は、慶応年間から秋田周辺での油田の兆候に興味を持っていたが、八橋字戌川原で滲出している石油を発見し、1869年(明治2年)から同地で本格的な採油を開始した。これが県内初の油田開発とされる。1870年(明治3年)に帰命寺境内に製油所を設置し、1872年(明治5年)に東京から石油ランプを取り寄せてランプと灯油の販売を試みたが、当時の精製技術は粗雑で悪臭が発生したため売り上げは芳しくなかった。 千蒲の他、久保田藩の殖産興業を推し進めた金易右衛門を祖父に持つ柿岡源十郎や秋田県為替方を勤めた小野組などが明治初期の油田開発を試み、1873年(明治6年)から外旭川地区や濁川地区(金足濁川)、黒川地区(金足黒川・以上3地区はすべて現在の秋田市北部)で手掘りによる石油の採掘が始まったが、いずれも大きな成果をあげられずに親会社の倒産などで頓挫した。本格的に石油産業が活発になるのは明治20年代になってからである。
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