秋田での活動
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1948年、義兄近藤の作品を取り扱っていた画商の旭谷正次郎の紹介で、秋田に文化講演会の講師として招かれる。これがきっかけとなり、この後秋田での設計を多く手がけることとなる。この年には、秋田での最初の作品となる《羽後病院》(現存せず)が完成する。この年、杉並区和田本町に転居、翌年には、東京都中野区江古田に転居する。 1951年、江古田で自ら設計した自邸《滴々居》(一部は移築されて現存)の建築が始まる。《滴々居》は、入居当初は手洗い場がないなど未完成で、入居後も改築・増築が進められた。設計図で計画されていた銅板葺は竣工の10年後に実現された。この年、秋田では《秋ノ宮村役場》(移築)《山月席(T旅館客室)》(現存せず)《山花席(O邸客室)》(現存するか不明)を手がける。《秋ノ宮役場》は白井の作品の中でも公共施設としての作品という面で特徴的である。また、そのデザインにおいても、民家で採用されることの多い切妻屋根を拡大して役場の屋根として採用している点が特徴的であり、評論家の川添登は「翼をひろげて、いまにも飛びたとうとする鳥」と評した。この作品はのちに取り壊しが決まった際に押切家によって「稲住温泉」に移築された。また、この年には東京都練馬区では《瀧瀬邸》(現存するか不明)も手がけた。
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