三鈷鐃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 03:00 UTC 版)
三鈷鐃は松峰山中から出土した古鈴であり、江戸時代に佐竹氏に渡され、現在は東京国立博物館が所蔵している。佐竹氏から地元の別当の伝寿院への受け取り状の文面は残っており「出羽秋田郡比内庄松峯山縁起」にそれが記録されていて『羽陰温古誌』では「現にその証がある」としている。 地元では「駅路の鈴(鐸)(えきろのすず)」と呼ばれている。人見蕉雨は『秋の田草』で1797年(寛政9年)に、この地方を訪れた際に「松嶺の駅路の鈴も名のみ聞」と記している。続いて二階堂蜀島が1800年(寛政12年)にこの鈴を実見し「駅路鈴は…常州鹿島郡正等院に所蔵されている。または、この秋田比内郡の松嶺山の鈴でもある。これは100年前に谷中から掘り出されたもので、不動堂の神職が所蔵していたものの、何の為に使うのかが分からなかったものである。その後、西国から来た老人が、鹿島の鈴と大同小異だから『駅路の鈴』であることは間違いがないと言い、それが広がった」と記録している。 菅江真澄は1803年(享和3年)6月18日から22日ごろに、松峰山を訪ね、その様子を「贄能辞賀楽美」に記録している。「金蔵院の翁は93歳でなくなった。その翁が明応の頃に南沢の土砂崩れから駅路の鐸を掘り出した。明応(1492年-1501年)の頃である。家宝として8代所持していたが、近年佐竹氏に献上したと聞く」と書き、更にこれを駅路の鈴と呼んでいる点については、古くは鏡にもおびだまにも鈴を付けたという点を指摘し、駅路の鈴であるとする根拠が不足しているとして、そう呼ぶことに否定的であった。 この鈴の正体については「佐竹家所蔵の古鈴に就いて」という論文もあるが、その正体に結論は下しかねている。この鈴は平成11年4月24日から5月16日まで佐竹氏から移管され現在保管されている東京国立博物館より借用して「三鈷鐃里帰り展」が大館郷土博物館で開催された。 三鈷鐃は地震が原因で埋まったとされているが、『久保田郡邑記』『秋田風土記』『郷村史略』では、地震よって埋まった鉄鰐も一緒に掘り出されたという記録もみえる。
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