伝寿院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 03:00 UTC 版)
伝寿院は松峰山の別当として記録されている。伝は傳とも、寿は壽・授と記される例がある。菅江真澄は伝寿院の絵図を残していて、ふもとから見て一の鳥居の左に伝寿院を描いている。伝寿院は「釈迦内郷土誌」が書かれた頃には廃絶していた。 1598年に大館浅利氏が滅び、大館が秋田実季の支配地になったとき、伝寿院には合計70石の知行が秋田氏から与えられている。このことから、浅利氏時代あるいはその以前から松峰山は比内地方で広く信仰され、浅利氏とは直接関わらない存在であったと考えられる。江戸時代には大館佐竹家から9石、二人扶持が与えられていたことが諸資料にみえる。
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