伝奇作家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/05 01:34 UTC 版)
1929年に初の時代小説『倭絵銀山図』を『週刊朝日』に連載。報知新聞の映画小説募集に応募したが入選せず、書き直した原稿「妖棋伝」を『日の出』で1935年から連載して人気作家となり、1938年から推理を取り入れた伝奇小説「風雲将棋谷」を『講談倶楽部』に連載して、同誌を代表する作家となる。続いて『髑髏銭』などの奇想作品を発表、国枝史郎ともに「伝奇小説」というジャンルを生み出した。「鍔鳴浪人」を読売新聞に連載する頃には、原稿料の収入が月給の何倍にもなり、読売新聞社客員となって月300円の専属料と、東宝から原作獲得の優先権のための嘱託料を受けるようになり、1939年に海軍水路部を辞して作家専業となる。1942年には海軍報道班員として徴用され、南洋諸島に従軍する。『講談倶楽部』では看板作家で、「緋牡丹盗賊」や、戦後の「妖異忠臣蔵」など連載は8回を数え、この頃舟橋聖一と丹羽文雄を合わせた原稿料を取る流行作家であった。しかし時節により伝奇ロマンの執筆が難しくなり、現代小説『妻なれば』を連載、時代小説が誌面縮小などで中断したりもした。
※この「伝奇作家として」の解説は、「角田喜久雄」の解説の一部です。
「伝奇作家として」を含む「角田喜久雄」の記事については、「角田喜久雄」の概要を参照ください。
- 伝奇作家としてのページへのリンク