逼迫する輸送量
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 16:23 UTC 版)
北陸本線旅客輸送量(人キロ)、貨物輸送量(トンキロ)推移年度旅客輸送量貨物輸送量複線進捗率 (%) 人キロ1957年比トンキロ1957年比1957年(昭和32年)度25.6 100 23.1 100 7.6 1958年(昭和33年)度26.2 102 22.2 97 14.3 1959年(昭和34年)度27.8 109 25.0 109 14.3 1960年(昭和35年)度29.7 116 27.6 120 21.2 1961年(昭和36年)度31.9 124 31.0 125 23.0 1962年(昭和37年)度33.0 129 28.7 125 42.2 1963年(昭和38年)度36.5 142 33.4 145 52.0 1964年(昭和39年)度38.1 144 33.0 143 55.6 1965年(昭和40年)度40.2 156 32.5 141 70.0 1966年(昭和41年)度40.6 159 32.6 141 90.0 1967年(昭和42年)度32.6 127 33.6 143 96.1 1968年(昭和43年)度33.4 130 34.2 148 98.7 直江津駅の対北陸本線出入車数(年ごとの1日平均)1957年1958年1959年1960年1961年北陸本線から出 通過車 232 273 302 316 334 発送車 363 332 374 374 410 計 595 605 676 690 744 北陸本線へ入 通過車 304 331 344 357 413 発送車 269 296 347 335 342 計 573 627 691 692 755 全通後から戦前にかけての北陸本線は輸送量こそ漸増していたものの行き詰まるほどではなく、複線区間も支線直通列車や操車場に関連して列車が錯綜する福井操車場(現:南福井駅) - 福井駅間、金沢駅 - 津幡駅間でわずかに設けられていたのみであった。 しかし第二次大戦後は、東北・北海道地域と関西地方を結ぶ最短経路(日本海縦貫線〔裏縦貫線〕)として脚光を浴び、朝鮮戦争後には沿線各地区での重工業開発により貨物輸送量が増大した。また旅客面では観光資源に恵まれたことにより観光客が増加した。結果、北陸本線は1963年(昭和37年)時点で貨物発送トン数が10年前の1.86倍となる全国一の伸びを記録し、その後も旅客貨物ともに輸送量は増加の一途を辿り、北陸本線の輸送力は急速に不足した。 これは、糸魚川駅 - 直江津駅間も例外ではなく、1963年(昭和37年)の時点で糸魚川駅 - 直江津駅間は限界一杯の84回列車を運行するに至り、1965年(昭和40年)ごろには104回に達する見込みであった。しかしこの区間は線路容量が小さく、最も低い筒石駅 - 名立駅間では列車運行回数は83回が限界となっていた。このため、糸魚川・直江津地区では貨物列車の比率が全体の約60 - 65パーセントに達する事態が発生した。 限界を迎えつつある北陸本線の輸送の状況について、当時の国鉄中部支社企画室長、滝川良和は国鉄各支社の担当者による座談会「幹線の行きづまりをどうするか」(『JREA』1963年4月号掲載)において、以下のように述べている。 北陸線では1本の臨時列車のスジを旅客に使う貨物に使うで、営業部内がとにかく2、3ヵ月議論しなければ結論が出ないということなんでね。それと同時にいまのところは主要幹線でほかに例がないと思うんですが、北陸本線の富山以遠、糸魚川直江津地区では貨物列車が6割から6割5分に達しているわけです…(中略)…完全に旅行客の増発というものは、ここ10年来おさえにおさえていまして、乗車効率は10年前より明らかに悪化している状態で、旅客が伸びようがない…(後略) — 滝川良和(国鉄中部支社企画室長)、<座談会>幹線の行きづまりをどうするか? また、同じく中部支社の鶴見三郎も同誌同号で以下のように述べている。 景気調整下の不況時であった昨年の秋でも、北陸線はギリギリいっぱいである。長岡から上越線で日本の背骨を越えて、わざわざ東海道に遠廻りして、やっと目的地に到着させた貨車が、毎日20両もあった。こんなやりくりの苦心をしても「輸送力不足のためやむなくトラックで輸送した」という貨物が4万トンを越えた〔ママ〕。だいたい1日1本ずつの貨物が国鉄への不信の度合いを強めながら、救世主のような思いでトラックに移っていったのである… (中略) …青海・糸魚川地区には新・増設工場があって、この地域の出貨は昨年より大幅に増加することはまず確実である。昨年より少なくとも2〜3往復が増発できないと、お先まっくらというほかない。 輸送力が足りない。5か年計画で富山までの複線化がめ進られているが〔ママ〕、牛の歩みのようにもどかしい。北陸トンネルの完成は確かに北陸の夜明けを告げるシンボルである。だが最大のあい路は解消しても、第2、第3、のあい路は北陸線の輸送力の前に大きな壁となって立ちはだかっている… (中略) とくに富山から北になると、わずかに親不知トンネルに着工しているだけで、全区間にわたってすでにあんなに慢性的になっている動脈硬化がいつになったら緩和されるという見通しもない。 (中略) …数年前の経済白書に、”もはや戦後ではない”という有名な言葉があるが、北陸線では供給さえあればなんでも飛ぶように売れた”戦後”がまだつづいているのである。 — 鶴見三郎(国鉄中部支社)、<幹線の四季>秋の北陸線
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