頸城トンネルとは? わかりやすく解説

頸城トンネル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/16 14:05 UTC 版)

頸城トンネル(くびきトンネル)は新潟県糸魚川市大字能生字白拍子のえちごトキめき鉄道日本海ひすいライン能生駅と同県上越市名立区名立大町字町田道下の同線名立駅の間にある鉄道トンネルである。


注釈

  1. ^ 当時の1位は北陸本線北陸トンネル(13,870 m)、2位が上越線新清水トンネル(13,490 m)。
  2. ^ それまでの民鉄最長の鉄道用山岳トンネルは北越急行ほくほく線赤倉トンネル(1997年(平成9年)供用開始、10,472 m)[7]
  3. ^ 同様に名立駅を挟んで隣接する名立トンネルも、起点方 270 m を3線断面として上り副本線の一部を収めている[10]
  4. ^ もっとも、1961年(昭和36年)運転開始時の「白鳥(いわゆる「青森白鳥」)」は大阪駅 - 青森駅間1052.9 km を15時間45分かけて走行しており、表定速度は66.85 km/h であった。
  5. ^ 当時は裏縦貫線と呼称していた。以下、本文中の名称は「日本海縦貫線」とする。
  6. ^ 1962年(昭和37年)を指す。岩戸景気オリンピック景気の間の短期間の不況下にあった。
  7. ^ 記事掲載前年の1962年開通。
  8. ^ 当時、浦本駅は未開業(1949年開業)。
  9. ^ 1963年(昭和38年)分までは、列車支障5時間以上、土砂崩壊500立方メートル以上、列車脱線または転覆のいずれかに該当するもの。以降は出典が取れている判明分のみ記載。
  10. ^ 駅は事故時点での駅間を採用し、適宜備考欄で記述する。
  11. ^ 引用文献中では「頽雪」と表記。以下「雪崩」と表記。
  12. ^ この区間には有間川駅 - 谷浜駅間の長浜トンネル、郷津駅 - 直江津駅間の郷津トンネルがあり、前者が複線新トンネル建設、後者が単線トンネル建設・旧トンネル改修による線増(もしくは郷津駅を放棄し谷浜駅 - 直江津駅間を短絡する複線の新線を建設)とすることで対応可能と考えられていた[46]
  13. ^ 新線をいったん単線で建設して現在線と併用し、数年後に線増することで投資を繰り延べる手法も検討されたが、この場合、列車交換を行う信号場の設置が必要である上輸送能力が劣り、新線を早期に複線としなければ1973年(昭和48年)までには線路容量が飽和してしまうことから、投資繰り延べは有利とならないと判断された[49][47]
  14. ^ 起点方からそれぞれ2,570 m、1,550 m
  15. ^ 山側に約700 m 移動。(現)能生駅の位置に相当。
  16. ^ トンネル内に信号場設置が必要
  17. ^ 延長14,750 m。この場合、名立川は現在の名立駅より3kmほど上流にあたる杉野瀬地区の地下30 mで通過する計画であったとされている[50]
  18. ^ 延長1,140 m
  19. ^ 起点方からそれぞれ11,250 m、3,590 m。
  20. ^ 山側に約1,000 m 移動。
  21. ^ 起点方からそれぞれ2,660 m、750 m
  22. ^ 5,850 m(能生 - 筒石)、580 m、4,000 m(筒石 - 名立)、3670 m(名立 - 有間川)
  23. ^ 1,160 m
  24. ^ 山側に単線の新郷津トンネル(880 m)を建設する案であった。
  25. ^ 新線は単線・もしくは複線で建設。単線の場合旧線を下り線として活用
  26. ^ 採用案でも、地上に設置された能生駅、名立駅に待避設備を設置している。
  27. ^ 1957年(昭和32年)に北陸本線木ノ本駅 - 敦賀駅間の旧線を設備簡素化の上で地域輸送のため存続させたものの、一部バス代行を経てこの前年の1964年(昭和39年)に完全廃止・バス転換された。
  28. ^ 現駅の入口は筒石地区から筒石川に沿ってすぐ上流の仙納地区に設置。
  29. ^ もっとも、第3次長期計画におけるすべての線増・電化計画が予定通り実行されたわけではない。例えば線増に関しては羽越本線など全線複線化が計画されていながら達成できなかった線区が多数存在する[62]
  30. ^ 後述する施設キロ(365.5 km)と異なる値であるが、当時完成していた深坂トンネル・北陸トンネル経由の数値(2新線で約9 km 短縮)と思われる。
  31. ^ 糸魚川以東の完全複線化は1969年(昭和44年)6月17日の片貝信号場 - 黒部駅間を最後に完成している。
  32. ^ 着工時点での計画値は1,150 m。
  33. ^ 着工時点での計画値は3,095 m。
  34. ^ 着工時点での計画値は2,660 m。
  35. ^ 着工時点での計画値は1,570 m。
  36. ^ 着工時点での計画値は11,355 m。
  37. ^ 着工時点での計画値は3,596 m。
  38. ^ 断鎖の位置については文献によって位置が異なるものがあるため『線増工事史』 (1970)『岐工五十年史』 (1970)での記述を参考とした。
  39. ^ トンネル底部中央に設けた導坑をまず掘削し、その後上半断面を掘削してトンネル天井部の覆工を行い、下半断面を全体に切り広げて側壁コンクリートを打設し、最後に底部のインバートを打設する工法[87]。北陸トンネル工事で確立された工法であり、底設導坑地質の確認・地下水排除が可能であることから、底盤部が泥寧化しやすい地山のトンネルや、長大トンネルの施工に適する[88]
  40. ^ 最初にトンネル下部両側壁付近に導坑を掘ってまず側壁を覆工し、続いてそれを全断面に広げて天井部の覆工をするという手順の工法[87]
  41. ^ サイロット工法に中央底部の導坑を加えたもの[87][89]
  42. ^ 能生駅を挟んで隣接し、同じく泥岩層を通過する木浦トンネル(1,570 m)の場合、米原方330 m を9 ‰、残る直江津方を5 ‰で施工している[93][94]。このほか、糸魚川駅 - 直江津駅間では長浜トンネルが同様に土被りを確保する都合上、3 ‰で施工されている[84]
  43. ^ 工事開始時は340 km 150 m 地点まで
  44. ^ 工事開始時は342 km 900 m 地点まで
  45. ^ 工事開始時は346 km 600 m 地点まで
  46. ^ 工事開始時は347 km 200 m 地点から348 km 860 m 地点までとされていた
  47. ^ 圧縮された断面を再掘削し、座屈変状した支保工を交換する作業[98]
  48. ^ トンネル上半部を先に4.5 - 6 m 掘削し、一旦掘進を中止して天井部(アーチコンクリート)の覆工を行い、可能な限り近い後方で下半部を1.5 - 2.0 m 掘進し、インバート側壁のコンクリートを施工する工法。地山を掘削したまま放置する区間・期間が短く、支保工の変状が発生する前にコンクリートで補強ができ、早期に円形閉合が可能となることから大きな地圧抵抗力が期待できる[102]
  49. ^ 第1工区終端は貫通地点より50 m 直江津方の339 km 550 m地点であったが[1]、第2工区方から地質調査を兼ねた底設導坑の応援掘削が行われている[99]
  50. ^ 再評価後の使用例としては、国内初の全断面TBMによる鉄道トンネル(単線)である吾妻線八ッ場トンネルがある(2005年貫通、2014年供用開始)[88]
  51. ^ 地質調査委員会は、長浜トンネル付近の地質について「地すべり地形であるが安定しており、地すべりの危険度は少ない。ただし段丘堆積層や岩屑の小規模な崩壊は起こりうるが大体良質な地質といえよう」とした[84]
  52. ^ この風化はトンネル設計において当時通常行われていた弾性波調査やボーリング調査では発見できない、局部的な変化であり、事故発生後の精密な調査の結果初めて判明したとされる[137]
  53. ^ ただし将来の交流化への改修が可及的に簡単になるよう配慮されている[147]
  54. ^ 新潟県は佐渡島内と糸魚川市旧青海町の一部を除き周波数50 Hzであり、仮に糸魚川以東に接続点がずれた場合、両周波数対応の機関車の製作か、機関車の付替が必要となる[147]
  55. ^ 坂町駅以北の電化方式についてこの時点では「今後の検討事項[147]」であったが、翌1965年(昭和40年)2月18日の国鉄第316回理事会で奥羽本線の交流電化が決定し[149]、同年3月3日の国鉄第342回常務会で羽越本線村上駅 - 間島駅間で交直接続とすることが決定している[151]
  56. ^ このため新線は開通以来交直両用車両、もしくは内燃動力車が定期運用に用いられている。
  57. ^ 当時、碓氷峠区間(横川駅 - 軽井沢駅間)で補機として運用されていたEF63形電気機関車と協調運転可能な交直流特急形電車が存在せず(489系は1972年登場)、連結両数など編成・運用面の制約が存在したため。
  58. ^ 上野07:40 - 金沢15:30→上野07:50 - 金沢14:25
  59. ^ 直江津12:38 - 富山14:40→直江津12:06 - 富山13:34
  60. ^ 富山16:56 - 直江津18:02 この間無停車。
  61. ^ 大島 (2004)の大島とは別人。

出典

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新聞

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  2. ^ 「湯殿トンネルが貫通 北陸線」『読売新聞』読売新聞社、1968年2月22日、新潟読売B。






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