頸城トンネル 頸城トンネル建設工事

頸城トンネル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/16 14:05 UTC 版)

頸城トンネル建設工事

線形と規格

両起終点付近に能生川と名立川およびこれらに沿う県道があり、坑口の位置・高さはこれらとの立体交差の都合から決定した[1]。また山王、相場、濁澄、筒石、徳合の各河川の下を横切る際のできるだけ大きな土被りの確保や、地すべり土塊下の良質地層下の通過を狙い、概ね直線としながらも中間部に半径1,000 m 、名立方坑口手前から名立駅構内にかけ半径2,000 m の曲線を介在させている[4][1][76][64]。また、北陸本線の線路規格上、勾配は10 ‰ まで許容されていたが、上述の制約、特に現に地すべりしていた濁澄川との土被りをできるだけとる都合から[90][42]、縦断線形は起点から途中濁澄川付近(343km地点付近)までの約5.1 km が2.5 ‰ の上り勾配、そこから終点まで約6.3 km が2.0 ‰ の下り勾配と設定された[91][1][76][92]。これは泥岩におけるトンネルとしては排水上最小限とされる値である[注釈 42]。それでも土被りの厚さは、山王川で18.4 m、濁澄川で13.5 m、筒石川で15.2 m、徳合川で9.0 m となり、これらの地区では慎重な施工が必要となった[76][85]

建設担当と工区割

当初より線増工事の完成時期は頸城トンネルの工事に支配されると考えられていたが[75][95]、1969年(昭和44年)秋の完成を達成するには36か月の工期となり、両坑口からの掘削に加えて中間に斜坑を設けての施工が必要であった[85][96]。このため、土被りが浅くなる川筋3か所に谷に通じる道路を拡幅整備したうえでトンネル上部へ将来の換気・保守作業通路へ転用する斜坑を設置し、5工区に分割して本坑の施工を実施した[86][85]

当初斜坑は山王川、濁澄川、徳合川の3か所で予定されていたが[86]、筒石駅設置に伴い斜坑の旅客通路転用を考慮し、山王川、筒石川、徳合川の3か所に変更した[86]。しかし後述する進捗状況への不安から着工1年半後の1967年(昭和42年)12月には当初予定されていた濁澄川にも第3工区に通じる斜坑(大藤崎斜坑)を追加している[97][76]

また、第1工区と第2工区の間、第2工区と第3工区の間、第4工区と第5工区の間には、それぞれ600 mの未契約区間が当初残されており[74]、その後の進捗に応じて契約して工程の調整を行った[96]

頸城トンネル工区割(最終)[1]
工区名 第1工区 第2工区 第3工区 第4工区 第5工区
着工 1966年4月23日 1966年3月14日 1966年2月21日 1966年3月5日 1966年2月26日
竣工 1969年3月31日 1969年4月10日 1969年4月5日 1969年4月5日 1969年1月15日
キロ程 起点 337 km 418 m 66 339 km 550 m 342 km 300 m 344 km 840 m 346 km 900 m
終点 339 km 550 m 342 km 300 m 344 km 840 m 346 km 900 m 348 km 771 m 66
延長 2,131 m 34 2,750 m 2,540 m 2,060 m 1,871 m 66
隣接工区

との 貫通年月日

1969年1月7日 1968年8月28日 1967年4月7日 1967年8月10日 -
作業坑 名称 なし

(坑口から施工)

山王斜坑 大藤崎斜坑 筒石斜坑 (筒石駅) 徳合斜坑 なし

(坑口から施工)

延長 174.3 m 171 m 232.1 m - 174.4 m
勾配 1/4 1/3.5 1/4 - 1/4
地点 340 km 170 m 342 km 950 m 344 km 545 m 344 km 700 m 346 km 057 m 30
施工業者 大成建設 間組 熊谷組 鹿島建設 鉄建建設
請負金額 15億7500万円 16億3900万円 17億5400万円 10億2700万円 9億8300万円
備考 [注釈 43] [注釈 44] [注釈 45] [注釈 46]

第1工区

第1工区は大成建設により、1966年(昭和41年)2月に米原方坑口から着手した[85]。掘削方式は底設導坑先進上部半断面掘削逆巻工法で進められ、ベントナイト質凝灰岩地帯(坑口より350 - 500 m 地点間)、石油の浸出(坑口より355 mおよび580 m付近[97])や断層も無事突破し[98]、当初の1,000 m ほどの区間は順調なペースで掘削が進み、翌1967年(昭和42年)3月までに底設導坑は1,350 m地点まで掘削を実施した[96][97]

しかしその後坑口より985 - 1,135 m 地点間では導坑に盤ぶくれ現象が生じ最大80 cm 扛上、導坑支保工内側幅が約1 m 縮小し、その区間の盤下げ縫返し[注釈 47]が行われた[99][100][98]

さらに、導坑が坑口より1,465 m 地点、上半掘削が1,350 m 地点に達したころから最大で土圧150 - 200 トン/m2 にもなる異常膨張性を持った約549 m の泥岩層区間(以下、異常地圧区間、米原起点338 km 851 m - 339 km 400 m間、以下特記ない限り米原起点[99])に達し、以降矢板折損、支保工変形が激しくなり、盤ぶくれはピークとなる掘削2週間後には1日平均6 cm にもおよび、インバートコンクリートも破壊された[101]。このため支保工の補強・縫返し、コンクリート仮巻き、盤下げ、コンクリート巻直し、吹付けコンクリート施工、大断面採用、などの対策を実施しながら掘進を進めたが、その吹付けコンクリートも破壊されるなど支保工やコンクリートの座屈変状は止まることはなかった[100][98][99][101]

1967年(昭和42年)10月19日、坑口より1,670 m(339 km 084.9 m)地点で導坑掘進は不可能となった。このため上部半断面を先進させることとしたが、上部半断面の掘削に従い338 km 851 m以奥の導坑は全面的に圧潰した[98][99][101]。加えて、以降は上部半断面も最大200 cm の盤ぶくれや支保工の著しい変状が発生するなど経日とともに変状が目立ち始め、同年11月30日坑口より1,543 m(338 km 958.4 m)地点で上部の掘進が中止された[100][98][99]

このため、上部掘進が中止された338 km 958.4 m 以奥の掘削工法については、中止翌月の1967年(昭和42年)12月21・22日に検討会議が開かれた[99]。再開に当たってはNATM工法などが検討されたが[42]、最終的に以下の方針で工事を継続することとなった[99]

  • 大きな地圧抵抗力が期待できる上部半断面先進ベンチカット併進逆巻工法[注釈 48]を採用
  • 断面をインバートもふくめ円形に変更
  • 掘削後直ちに掘削分の延長をコンクリート覆工。覆工は2回巻(1次巻70 cm、2次巻50 cm[98])とする
  • 覆工コンクリートは早強コンクリートを使用し、1次巻のみ鉄筋を挿入(2次巻は1次巻の変状が少なかったため無筋)[98][84]
  • 覆工1次巻のある程度の変状を考慮し断面を拡大
  • 全断面の可能な限りの覆工早期完了のため上半と下半は極力間隔を短くする

この方針の下、上部半断面掘削中止地点までの約100 m の区間の下部半断面については、翌年3月末までに縫返しを実施し上半のアーチコンクリートを打設後すぐに側壁・インバートを打設して早急に完成形状に仕上げ、同時に断面を円形に近づけ、中止地点まで完成形での施工を終了させた[86][102][101]。残る異常地圧区間は1968年(昭和43年)4月3日から掘削を再開した[99]。以降は1968年(昭和43年)11月時点で上半・下半とも2.50 m/日の掘進速度を維持し、順調に工事が進んだ[101]。工区の残り延長が150 m となった339 km 400 m地点より膨張はなくなったが、工法変更は工費・工期両面で有利でないことから断面のみ普通断面として工区境まで工事を継続した[42][103]。1969年(昭和44年)1月7日に339 km 500 m 地点で第2工区と貫通し[注釈 49]、これによりトンネル全区間が貫通した[103][36]

なお、異常地圧区間の建設費は、円形断面としたことや覆工に鉄筋コンクリートを使用したことなどにより、通常断面区間を底設導坑方式で建設した区間の2倍の1,084,000円/mに達した[42]

第2工区

第2工区は間組により、山王斜坑によって1966年(昭和41年)10月に斜坑坑底(340 km 170 m)へ取り付き、サイロット工法にて直ちに直江津方への本坑掘進に着手した[100][1]。坑内温度は30 ℃〜35 ℃に達する高温下での作業となったが[1]、翌1967年(昭和42年)6月までに導坑は約1,100 m を掘進するなど順調に工事を進めた[103][100]。しかし、上半断面切羽が斜坑交点より800 m(340 km 970 m)の地点に差し掛かったころ、同地点の導坑が同年5月下旬から7月下旬までの間に約90 cm 扛上するなど盤ぶくれが発生し、同年6月から8月にかけ、導坑切羽掘削を中止し盤下げを実施した[103][100]

導坑の掘削が停止している間でも、上半の掘削は斜坑交点より870 m まで進められた。しかし、導坑の盤ぶくれ範囲が相場川下部藤崎脊斜軸の泥岩地帯にあたる970 m 地点までに拡大し、上半掘削を停止して約50 cmの盤下げを実施した。その後上半掘削は同年10月に再開されたが、再び970 m 地点の導坑に盤ぶくれが発生し、同年11月に再度約70 cm の盤下げを実施した[100]

それでもなお導坑掘進は強行されたが、相場川下部の藤崎背斜軸付近(341 km 170 - 300 m 間)は地質不良・地耐力不足の様相を示した。このため当該区間は導坑に仮巻きコンクリートを施工し、上半掘削はこの地点を飛ばして奥を実施することとした[103]

当該区間は特殊サイロット工法に切り替えて工事が行われ、1968年(昭和43年)11月にかけて約1年がかりで同区間を施工した[100]。このほか、342 km 980 m - 343 km 050 m間、343 km 460 m - 460 m間、343 km 735 m - 935 m 間をサイロット工法で施工した[103]

第1工区と第2工区の間に600 m 残されていた未契約区間は、前述の第1工区の苦闘による工程遅れに伴いすべて第2工区の受け持ちとされた。一方、第2工区と第3工区間の未契約区間については後述の理由から第3工区側がすべて受け持った[86]

第3工区

筒石斜坑(現筒石駅旅客通路)入口(2010年)
筒石斜坑(現:筒石駅旅客通路)内部(2011年)
筒石斜坑(直進)と筒石駅旅客通路(左方)の分岐部。(2010年)
1967年(昭和42年)4月7日、第3工区と第4工区の貫通点にて握手する国鉄岐阜工事局長高橋克男(右)と同糸魚川出張所長朝倉隆(左)

第3工区は熊谷組により、筒石斜坑坑口にて1966年(昭和41年)3月30日に起工し、同年7月15日に斜坑坑底(344 km 545 m)から、直江津方と米原方の2方向へ掘削を開始した[104][105][106]

直江津方は底設導坑先進上部半断面掘削逆巻工法で掘削し、344 km 700 m 前後の280 m では筒石川直下の土被りの薄い箇所にもかかわらず、筒石駅を設置するため通常断面より側幅が1.3 m, 断面が0.64 m 広い特殊断面を掘削した。この区間は順調に進行し1967年(昭和42年)3月に工区境に達し、4月7日に岐阜工事局長高橋克男の発破により第4工区と貫通、頸城トンネル各工区間で最初の貫通となった[107][1]

一方米原方は、当初、濁澄川直下(契約段階でサイロット工法を指定)を除いて、直江津方と同様底設導坑先進上部半断面掘削逆巻工法で掘削を予定していたが、濁澄川直下であり地すべり誘発の危険性が最も大きい区間であること、地耐力不足で上半アーチが沈下するおそれから、同年8月18日以降344 km 435地点より、請負側の願出により、サイロット工法に方式を切り替えている[42][108][109]。しかし海側の導坑切羽が343 km 830付近に到達した1966年(昭和41年)12月中旬ごろ、支保工が膨圧により変形をはじめ、その後各種の変状対策を行いつつ、いったん掘削は中止した[110]

翌1967年(昭和42年)2月14日、山側の導坑のみ343 km 940 m地点より掘削を再開したが、これにより海側の導坑が最大40 cm せり上がり蛇行するなど大きく変状し、補強用の柱を立て込むなどして機能を喪失したため、3月5日には再度掘削を中止し、海側導坑縫い返しと山側導坑補強に専念することとなった[111]

同月7日には山側導坑のみ掘削を再開し、4月6日までに343 km 875 m 付近まで約 60 m 掘削をしたが、直江津方が第4工区と貫通した翌7日夕刻ごろ、切羽右天端より突如漏水し、翌日には毎分7 - 8 Lの噴出をみた。同時に343 km 830 - 887 m付近で左右から突然強大な地圧を受け、山鳴り、矢板折損、支保工変形が発生し、崩壊の危険から補強作業も含め一旦以奥での作業を中止した[112]

9日には補強作業を再開したが、海側導坑も同地点で変状が発生し、縦横に丸太などで柱・横はりを施工したため導坑は通行不能となり、5月末までに一応の補強は終了したものの、切羽は4か月間にわたり作業を中止した[105][113][114]

その後数か月かけ345 km 745 - 935 m間の導坑縫返し、仮巻コンクリートを実施し、同年7月24日に右側、9月10日より左側導坑の掘削を再開した。この再開に際して、導坑は左右で雁行させず併進させ、後方の側壁コンクリートもなるべく切羽と近づけることとしている。その後も343 km 650 - 900 m 区間では後に側壁コンクリート押出し現象が発生し、一部は手直しとなるなどしたものの、異常膨圧区間は無事に突破し、その後導坑を馬蹄形に変更して引き続き懸案であった濁澄川直下のベントナイト層を引き続き掘削することとなった[115][105]

なお前述したように第3工区には大藤崎斜坑が追設されている。これは、第1工区が強大地圧で難航し、第1 - 2工区境界の未契約区間が第2工区持ちとなったこと、一方で第2工区側に掘削停止期間があったこと、第3工区に濁澄川下部のベントナイト層を貫く区間(343 km 100 m付近)があり難航が予想されたことと、以上の要因で工程上問題があったことから1947年(昭和42年)9月末に設置が決定されたもので、この関係から第2 - 3工区境界の未契約区間が第3工区持ちとなった[76][116][114]

大藤崎斜坑は1947年(昭和42年)10月20日に掘削に着手し、翌1948年(昭和43年)1月末に坑底(342 km 310 m)に取り付き、2月9日より濁澄川下部のベントナイト層へ向けて迎え掘りを開始し、同年3月に導坑を貫通させ、夏には完了した[117]。また、第2工区境界に向けても掘削を行い、同年8月28日に第2工区と貫通した[117]

第4工区

糸魚川市徳合に設けられた徳合斜坑(2019年)。第4工区へ通じる。現在は保守・避難用。

第4工区は鹿島建設により、徳合斜坑によって本坑に取り付いて米原方と直江津方へ掘削し[106]、底設導坑先進上部半断面掘削逆巻工法を用い、湧水も少なく順調に施工した[76][118]。第4工区と第5工区については順調に掘削が進んだことから、工区境にある600 m の未契約区間は、300 m ずつ分割してそれぞれ施工した[86]

第5工区

第5工区は鉄建建設により、直江津方の坑口から着手した[106]。前述のとおり名立駅設置の都合上、坑口付近250 m が3線断面、そのあと30 m 通常断面への移行部分[8][4]になっていたことからこの付近についてはサイロット工法で掘削を行い[42]、そのほかは底設導坑先進上部半断面掘削逆巻工法で施工した[1]。坑口より150 m地点で湧水に伴う細砂の流出、347 km 420 mでの砂層との遭遇があったが、そのほかは比較的順調に掘削が行われた[118]

なお、第5工区および隣接する名立トンネル第1工区の工事に関して、第5工区山上の養鶏場では、騒音・夜間照明による産卵低下、衝撃による鶏の死亡が発生し、各種の対策を行ったが効果が乏しく、補償として仮鶏舎への移転が行われた[119]

斜坑の処理

4本の斜坑のうち、筒石斜坑は筒石駅旅客通路として転用された[120]。山王・徳合斜坑は換気・保守用通路として存置することとなり、坑口に地すべりや冠水流入を防ぐ防護堤を設置し、坑内には階段・手すりが整備された[121]。一方で、大藤崎斜坑は転用せず表土と地山の境界付近(坑口から45m地点)と坑口で完全に閉塞した[120]

頸城トンネルの完成

第1 - 第3工区の難航により当初の工期が危ぶまれたものの、トンネル自体の工事は1969年(昭和44年)5月に全面完成し[2]、予定通りの完成となった[97]

同年6月10日に頸城隧道銘標除幕式およびレール締結式が実施された。締結式は米原方坑口から約25メートル入った場所、下り337 km 439 m 30 地点、上り337 km 433 m 50 地点で実施された[11]


注釈

  1. ^ 当時の1位は北陸本線北陸トンネル(13,870 m)、2位が上越線新清水トンネル(13,490 m)。
  2. ^ それまでの民鉄最長の鉄道用山岳トンネルは北越急行ほくほく線赤倉トンネル(1997年(平成9年)供用開始、10,472 m)[7]
  3. ^ 同様に名立駅を挟んで隣接する名立トンネルも、起点方 270 m を3線断面として上り副本線の一部を収めている[10]
  4. ^ もっとも、1961年(昭和36年)運転開始時の「白鳥(いわゆる「青森白鳥」)」は大阪駅 - 青森駅間1052.9 km を15時間45分かけて走行しており、表定速度は66.85 km/h であった。
  5. ^ 当時は裏縦貫線と呼称していた。以下、本文中の名称は「日本海縦貫線」とする。
  6. ^ 1962年(昭和37年)を指す。岩戸景気オリンピック景気の間の短期間の不況下にあった。
  7. ^ 記事掲載前年の1962年開通。
  8. ^ 当時、浦本駅は未開業(1949年開業)。
  9. ^ 1963年(昭和38年)分までは、列車支障5時間以上、土砂崩壊500立方メートル以上、列車脱線または転覆のいずれかに該当するもの。以降は出典が取れている判明分のみ記載。
  10. ^ 駅は事故時点での駅間を採用し、適宜備考欄で記述する。
  11. ^ 引用文献中では「頽雪」と表記。以下「雪崩」と表記。
  12. ^ この区間には有間川駅 - 谷浜駅間の長浜トンネル、郷津駅 - 直江津駅間の郷津トンネルがあり、前者が複線新トンネル建設、後者が単線トンネル建設・旧トンネル改修による線増(もしくは郷津駅を放棄し谷浜駅 - 直江津駅間を短絡する複線の新線を建設)とすることで対応可能と考えられていた[46]
  13. ^ 新線をいったん単線で建設して現在線と併用し、数年後に線増することで投資を繰り延べる手法も検討されたが、この場合、列車交換を行う信号場の設置が必要である上輸送能力が劣り、新線を早期に複線としなければ1973年(昭和48年)までには線路容量が飽和してしまうことから、投資繰り延べは有利とならないと判断された[49][47]
  14. ^ 起点方からそれぞれ2,570 m、1,550 m
  15. ^ 山側に約700 m 移動。(現)能生駅の位置に相当。
  16. ^ トンネル内に信号場設置が必要
  17. ^ 延長14,750 m。この場合、名立川は現在の名立駅より3kmほど上流にあたる杉野瀬地区の地下30 mで通過する計画であったとされている[50]
  18. ^ 延長1,140 m
  19. ^ 起点方からそれぞれ11,250 m、3,590 m。
  20. ^ 山側に約1,000 m 移動。
  21. ^ 起点方からそれぞれ2,660 m、750 m
  22. ^ 5,850 m(能生 - 筒石)、580 m、4,000 m(筒石 - 名立)、3670 m(名立 - 有間川)
  23. ^ 1,160 m
  24. ^ 山側に単線の新郷津トンネル(880 m)を建設する案であった。
  25. ^ 新線は単線・もしくは複線で建設。単線の場合旧線を下り線として活用
  26. ^ 採用案でも、地上に設置された能生駅、名立駅に待避設備を設置している。
  27. ^ 1957年(昭和32年)に北陸本線木ノ本駅 - 敦賀駅間の旧線を設備簡素化の上で地域輸送のため存続させたものの、一部バス代行を経てこの前年の1964年(昭和39年)に完全廃止・バス転換された。
  28. ^ 現駅の入口は筒石地区から筒石川に沿ってすぐ上流の仙納地区に設置。
  29. ^ もっとも、第3次長期計画におけるすべての線増・電化計画が予定通り実行されたわけではない。例えば線増に関しては羽越本線など全線複線化が計画されていながら達成できなかった線区が多数存在する[62]
  30. ^ 後述する施設キロ(365.5 km)と異なる値であるが、当時完成していた深坂トンネル・北陸トンネル経由の数値(2新線で約9 km 短縮)と思われる。
  31. ^ 糸魚川以東の完全複線化は1969年(昭和44年)6月17日の片貝信号場 - 黒部駅間を最後に完成している。
  32. ^ 着工時点での計画値は1,150 m。
  33. ^ 着工時点での計画値は3,095 m。
  34. ^ 着工時点での計画値は2,660 m。
  35. ^ 着工時点での計画値は1,570 m。
  36. ^ 着工時点での計画値は11,355 m。
  37. ^ 着工時点での計画値は3,596 m。
  38. ^ 断鎖の位置については文献によって位置が異なるものがあるため『線増工事史』 (1970)『岐工五十年史』 (1970)での記述を参考とした。
  39. ^ トンネル底部中央に設けた導坑をまず掘削し、その後上半断面を掘削してトンネル天井部の覆工を行い、下半断面を全体に切り広げて側壁コンクリートを打設し、最後に底部のインバートを打設する工法[87]。北陸トンネル工事で確立された工法であり、底設導坑地質の確認・地下水排除が可能であることから、底盤部が泥寧化しやすい地山のトンネルや、長大トンネルの施工に適する[88]
  40. ^ 最初にトンネル下部両側壁付近に導坑を掘ってまず側壁を覆工し、続いてそれを全断面に広げて天井部の覆工をするという手順の工法[87]
  41. ^ サイロット工法に中央底部の導坑を加えたもの[87][89]
  42. ^ 能生駅を挟んで隣接し、同じく泥岩層を通過する木浦トンネル(1,570 m)の場合、米原方330 m を9 ‰、残る直江津方を5 ‰で施工している[93][94]。このほか、糸魚川駅 - 直江津駅間では長浜トンネルが同様に土被りを確保する都合上、3 ‰で施工されている[84]
  43. ^ 工事開始時は340 km 150 m 地点まで
  44. ^ 工事開始時は342 km 900 m 地点まで
  45. ^ 工事開始時は346 km 600 m 地点まで
  46. ^ 工事開始時は347 km 200 m 地点から348 km 860 m 地点までとされていた
  47. ^ 圧縮された断面を再掘削し、座屈変状した支保工を交換する作業[98]
  48. ^ トンネル上半部を先に4.5 - 6 m 掘削し、一旦掘進を中止して天井部(アーチコンクリート)の覆工を行い、可能な限り近い後方で下半部を1.5 - 2.0 m 掘進し、インバート側壁のコンクリートを施工する工法。地山を掘削したまま放置する区間・期間が短く、支保工の変状が発生する前にコンクリートで補強ができ、早期に円形閉合が可能となることから大きな地圧抵抗力が期待できる[102]
  49. ^ 第1工区終端は貫通地点より50 m 直江津方の339 km 550 m地点であったが[1]、第2工区方から地質調査を兼ねた底設導坑の応援掘削が行われている[99]
  50. ^ 再評価後の使用例としては、国内初の全断面TBMによる鉄道トンネル(単線)である吾妻線八ッ場トンネルがある(2005年貫通、2014年供用開始)[88]
  51. ^ 地質調査委員会は、長浜トンネル付近の地質について「地すべり地形であるが安定しており、地すべりの危険度は少ない。ただし段丘堆積層や岩屑の小規模な崩壊は起こりうるが大体良質な地質といえよう」とした[84]
  52. ^ この風化はトンネル設計において当時通常行われていた弾性波調査やボーリング調査では発見できない、局部的な変化であり、事故発生後の精密な調査の結果初めて判明したとされる[137]
  53. ^ ただし将来の交流化への改修が可及的に簡単になるよう配慮されている[147]
  54. ^ 新潟県は佐渡島内と糸魚川市旧青海町の一部を除き周波数50 Hzであり、仮に糸魚川以東に接続点がずれた場合、両周波数対応の機関車の製作か、機関車の付替が必要となる[147]
  55. ^ 坂町駅以北の電化方式についてこの時点では「今後の検討事項[147]」であったが、翌1965年(昭和40年)2月18日の国鉄第316回理事会で奥羽本線の交流電化が決定し[149]、同年3月3日の国鉄第342回常務会で羽越本線村上駅 - 間島駅間で交直接続とすることが決定している[151]
  56. ^ このため新線は開通以来交直両用車両、もしくは内燃動力車が定期運用に用いられている。
  57. ^ 当時、碓氷峠区間(横川駅 - 軽井沢駅間)で補機として運用されていたEF63形電気機関車と協調運転可能な交直流特急形電車が存在せず(489系は1972年登場)、連結両数など編成・運用面の制約が存在したため。
  58. ^ 上野07:40 - 金沢15:30→上野07:50 - 金沢14:25
  59. ^ 直江津12:38 - 富山14:40→直江津12:06 - 富山13:34
  60. ^ 富山16:56 - 直江津18:02 この間無停車。
  61. ^ 大島 (2004)の大島とは別人。

出典

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新聞

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  2. ^ 「湯殿トンネルが貫通 北陸線」『読売新聞』読売新聞社、1968年2月22日、新潟読売B。






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