頸城トンネル 糸魚川駅 - 直江津駅間線増工事概要

頸城トンネル

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糸魚川駅 - 直江津駅間線増工事概要

1965年(昭和40年)11月10日、国鉄は北陸本線糸魚川駅 - 直江津駅間の複線電化工事の全容を発表した[72]。 最終的に北陸本線糸魚川 - 直江津間線増工事は当初計画から2年遅れる1966年(昭和41年)3月1日に直江津市内で着工・起工式を行い、完成目標は逆に3年早めた1969年(昭和44年)秋とされた[30][4][73]

線増工事概要

線増工事は前述のC案を基とする以下のものとなった[16]

糸魚川駅 - 直江津駅間線増工事(完成時点での最終)[16][74][75][15]
糸魚川駅
- 浦本駅
浦本駅 - 能生駅 能生駅 能生駅 - 名立駅 名立駅 名立駅 - 有間川駅 有間川駅 - 谷浜駅 谷浜駅 - 直江津駅 路線延長
(km)
トンネル 最急勾配
(‰)
最小曲線半径
総延長
(km)
最長
(km)
現在線を線増 新線建設。 現在線を線増。但し長浜トンネルは複線新トンネル(1,158 m[注釈 32])に切替。 新線建設。湯殿トンネル(3,105 m[注釈 33])で短絡し郷津駅廃止。 38.8 23.455 11.355 10 R=500
浦本トンネル(2,665 m[注釈 34])、木浦トンネル(1,571 m[注釈 35])で結ぶ。 新線上に移設。 頸城トンネル(11,353 m[注釈 36])で結ぶ。トンネル内に筒石駅を移設。 新線上に移設。 名立トンネル(3,601 m[注釈 37])で結ぶ。
(参考)旧線 41.3 3.09 0.65 10 R=300

トンネルはいずれも直流電化複線形(内空断面積51 m2)を基本に、名立駅前後は3線断面区間(内空断面積91 m2)とした[76]

駅は、湯殿トンネルによって迂回される郷津駅(谷浜駅 - 直江津駅間)を廃止したほかは、能生駅は旧駅(現:糸魚川市能生事務所付近)から約700 m 山側の木浦・頸城トンネル間の明かり区間、筒石駅が頸城トンネル内の地下、名立駅が旧駅(当時の名立町大字名立小泊229-2に所在[77])から約1.6 km山側に離れた頸城・名立トンネル間の明かり区間に新駅を設け移転した。

施工は日本国有鉄道岐阜工事局が担当した[78]

キロ程について

名立駅ホームに設置された米原起点349 kmポスト 奥が名立トンネル(2009年撮影)

北陸本線は本工事のほか、全線の29 %に当たる106.4 km を新線に切り替えたことにより、全線で路線延長が12.6 km短縮された[79]。このため全線複線化を達成した1969年(昭和44年)10月1日の営業キロ程修正時点で、営業キロ上の総延長を353.8 km としている。

一方で施設上のキロ程(以下、施設キロ)は引き続き旧線に基づく開業以来のキロ程が用いられ、キロポスト(距離標)もこれに基づいて建植されている。これは糸魚川駅 - 直江津駅間の新線も同様であり数か所の断鎖(ブレーキメートル、BrM)の距離更正点を設け、キロ程を増減し修正している[6]

以下文中ではキロ程を表示する箇所があるが、特記ない限り施設キロで表記する。なお新線と旧線、および営業キロとのキロ程対照は以下の通り。えちごトキめき鉄道移管後に開業したえちご押上ひすい海岸駅については参考値として施設キロは構内に位置する西海踏切のキロ程を表記する。

糸魚川駅 - 直江津駅間キロ程対照表(km)[80][81] [25][74][82][83][注釈 38]
糸魚川駅 えちご押上ひすい海岸駅
(西海RC)
交直接続点 (BrM) 梶屋敷駅 (BrM) (BrM) 浦本駅 (BrM) (新)

能生駅

(旧)

能生駅

(BrM) (BrM) (旧)

筒石駅

(新)

筒石駅

(新)

名立駅

(旧)

名立駅

(BrM) 有間川駅 (BrM) (BrM) 谷浜駅 郷津駅 (BrM) (BrM) 直江津駅
旧線 施設キロ (米原起点) 324.260 325.85235 - 328.00534 328.620 329.70991 331.00000 332.10000 - - 337.640 - - 344.080 - - 350.660 - 355.250 355.59140 357.14886 358.560 360.930 362.10000 363.94000 365.52585
新線 327.200 328.00000 329.69890 330.98698 333.69970 337.270 - 342.30000 342.90000 - 344.700 348.910 - 350.89800 355.170 355.59226 357.14886 - 362.09700 363.59761
328.00534 329.70991 331.00000 333.70000 342.31100 342.90100 353.00000 355.59140 357.14446 362.10000 363.94000
営業キロ 315.0 (316.6) - - 319.3 - - 322.8 - 327.9 - - - - 335.4 339.6 - - 343.8 - - 347.2 - - - 353.8
(市振起点) 20.5 22.1 - - 24.8 - - 28.3 - 33.4 - - - - 40.9 45.1 - - 49.3 - - 52.7 - - - 59.3

施工

施工にあたっての技術的問題点

新線建設にあたっては特にトンネル掘削に関して以下の技術的問題点が懸念された[6][84]

  1. 膨張性軟弱泥岩およびベントナイト層の掘削(頸城トンネル)
  2. 4 - 5 kg/cm2の被圧下にある含水砂礫層の掘削(浦本トンネル)
  3. 噴出するメタンガスに対する安全対策(各トンネル)
  4. 軟弱泥岩地帯での3線断面(約120 m2)の掘削(頸城トンネル、名立トンネル)

特に頸城トンネルに関しては、能生谷層と呼ばれる泥岩主体の層が入口側から濁澄川付近まで続き、その上にさらに砂岩と泥岩が互層となって重なっている。また、坑口から350 - 500 m 間にかけて、および中央部の濁澄川下部に水溶膨張度が高いベントナイト凝灰岩が介在する[16][85]。徳合川の谷を境に名立川層と称する泥岩が主体となる。いずれも第三紀層に属する比較的新しい地層で、固結度が低いものであった。特に第1工区から第3工区にかけては、地殻変動の甚だしい地帯で地すべり崩土層が広く分布するとともに、各所での爆発性ガスの検知、石油の湧出、異常膨張性泥岩の存在、摂氏30度に達する高温など、数々の困難に見舞われることになった[86][85]

施工法

各トンネルともおおむね軟弱地質帯を貫くことから全断面掘削は実施せず、中央底設導坑先進上部半断面掘削逆巻工法[注釈 39]を主に採用し、地質が悪い箇所は側壁導坑先進順巻工法(サイロット工法)[注釈 40]や、特殊サイロット工法[注釈 41]を用いた[89]。その他、特殊な施工については各トンネルの項で述べる。


注釈

  1. ^ 当時の1位は北陸本線北陸トンネル(13,870 m)、2位が上越線新清水トンネル(13,490 m)。
  2. ^ それまでの民鉄最長の鉄道用山岳トンネルは北越急行ほくほく線赤倉トンネル(1997年(平成9年)供用開始、10,472 m)[7]
  3. ^ 同様に名立駅を挟んで隣接する名立トンネルも、起点方 270 m を3線断面として上り副本線の一部を収めている[10]
  4. ^ もっとも、1961年(昭和36年)運転開始時の「白鳥(いわゆる「青森白鳥」)」は大阪駅 - 青森駅間1052.9 km を15時間45分かけて走行しており、表定速度は66.85 km/h であった。
  5. ^ 当時は裏縦貫線と呼称していた。以下、本文中の名称は「日本海縦貫線」とする。
  6. ^ 1962年(昭和37年)を指す。岩戸景気オリンピック景気の間の短期間の不況下にあった。
  7. ^ 記事掲載前年の1962年開通。
  8. ^ 当時、浦本駅は未開業(1949年開業)。
  9. ^ 1963年(昭和38年)分までは、列車支障5時間以上、土砂崩壊500立方メートル以上、列車脱線または転覆のいずれかに該当するもの。以降は出典が取れている判明分のみ記載。
  10. ^ 駅は事故時点での駅間を採用し、適宜備考欄で記述する。
  11. ^ 引用文献中では「頽雪」と表記。以下「雪崩」と表記。
  12. ^ この区間には有間川駅 - 谷浜駅間の長浜トンネル、郷津駅 - 直江津駅間の郷津トンネルがあり、前者が複線新トンネル建設、後者が単線トンネル建設・旧トンネル改修による線増(もしくは郷津駅を放棄し谷浜駅 - 直江津駅間を短絡する複線の新線を建設)とすることで対応可能と考えられていた[46]
  13. ^ 新線をいったん単線で建設して現在線と併用し、数年後に線増することで投資を繰り延べる手法も検討されたが、この場合、列車交換を行う信号場の設置が必要である上輸送能力が劣り、新線を早期に複線としなければ1973年(昭和48年)までには線路容量が飽和してしまうことから、投資繰り延べは有利とならないと判断された[49][47]
  14. ^ 起点方からそれぞれ2,570 m、1,550 m
  15. ^ 山側に約700 m 移動。(現)能生駅の位置に相当。
  16. ^ トンネル内に信号場設置が必要
  17. ^ 延長14,750 m。この場合、名立川は現在の名立駅より3kmほど上流にあたる杉野瀬地区の地下30 mで通過する計画であったとされている[50]
  18. ^ 延長1,140 m
  19. ^ 起点方からそれぞれ11,250 m、3,590 m。
  20. ^ 山側に約1,000 m 移動。
  21. ^ 起点方からそれぞれ2,660 m、750 m
  22. ^ 5,850 m(能生 - 筒石)、580 m、4,000 m(筒石 - 名立)、3670 m(名立 - 有間川)
  23. ^ 1,160 m
  24. ^ 山側に単線の新郷津トンネル(880 m)を建設する案であった。
  25. ^ 新線は単線・もしくは複線で建設。単線の場合旧線を下り線として活用
  26. ^ 採用案でも、地上に設置された能生駅、名立駅に待避設備を設置している。
  27. ^ 1957年(昭和32年)に北陸本線木ノ本駅 - 敦賀駅間の旧線を設備簡素化の上で地域輸送のため存続させたものの、一部バス代行を経てこの前年の1964年(昭和39年)に完全廃止・バス転換された。
  28. ^ 現駅の入口は筒石地区から筒石川に沿ってすぐ上流の仙納地区に設置。
  29. ^ もっとも、第3次長期計画におけるすべての線増・電化計画が予定通り実行されたわけではない。例えば線増に関しては羽越本線など全線複線化が計画されていながら達成できなかった線区が多数存在する[62]
  30. ^ 後述する施設キロ(365.5 km)と異なる値であるが、当時完成していた深坂トンネル・北陸トンネル経由の数値(2新線で約9 km 短縮)と思われる。
  31. ^ 糸魚川以東の完全複線化は1969年(昭和44年)6月17日の片貝信号場 - 黒部駅間を最後に完成している。
  32. ^ 着工時点での計画値は1,150 m。
  33. ^ 着工時点での計画値は3,095 m。
  34. ^ 着工時点での計画値は2,660 m。
  35. ^ 着工時点での計画値は1,570 m。
  36. ^ 着工時点での計画値は11,355 m。
  37. ^ 着工時点での計画値は3,596 m。
  38. ^ 断鎖の位置については文献によって位置が異なるものがあるため『線増工事史』 (1970)『岐工五十年史』 (1970)での記述を参考とした。
  39. ^ トンネル底部中央に設けた導坑をまず掘削し、その後上半断面を掘削してトンネル天井部の覆工を行い、下半断面を全体に切り広げて側壁コンクリートを打設し、最後に底部のインバートを打設する工法[87]。北陸トンネル工事で確立された工法であり、底設導坑地質の確認・地下水排除が可能であることから、底盤部が泥寧化しやすい地山のトンネルや、長大トンネルの施工に適する[88]
  40. ^ 最初にトンネル下部両側壁付近に導坑を掘ってまず側壁を覆工し、続いてそれを全断面に広げて天井部の覆工をするという手順の工法[87]
  41. ^ サイロット工法に中央底部の導坑を加えたもの[87][89]
  42. ^ 能生駅を挟んで隣接し、同じく泥岩層を通過する木浦トンネル(1,570 m)の場合、米原方330 m を9 ‰、残る直江津方を5 ‰で施工している[93][94]。このほか、糸魚川駅 - 直江津駅間では長浜トンネルが同様に土被りを確保する都合上、3 ‰で施工されている[84]
  43. ^ 工事開始時は340 km 150 m 地点まで
  44. ^ 工事開始時は342 km 900 m 地点まで
  45. ^ 工事開始時は346 km 600 m 地点まで
  46. ^ 工事開始時は347 km 200 m 地点から348 km 860 m 地点までとされていた
  47. ^ 圧縮された断面を再掘削し、座屈変状した支保工を交換する作業[98]
  48. ^ トンネル上半部を先に4.5 - 6 m 掘削し、一旦掘進を中止して天井部(アーチコンクリート)の覆工を行い、可能な限り近い後方で下半部を1.5 - 2.0 m 掘進し、インバート側壁のコンクリートを施工する工法。地山を掘削したまま放置する区間・期間が短く、支保工の変状が発生する前にコンクリートで補強ができ、早期に円形閉合が可能となることから大きな地圧抵抗力が期待できる[102]
  49. ^ 第1工区終端は貫通地点より50 m 直江津方の339 km 550 m地点であったが[1]、第2工区方から地質調査を兼ねた底設導坑の応援掘削が行われている[99]
  50. ^ 再評価後の使用例としては、国内初の全断面TBMによる鉄道トンネル(単線)である吾妻線八ッ場トンネルがある(2005年貫通、2014年供用開始)[88]
  51. ^ 地質調査委員会は、長浜トンネル付近の地質について「地すべり地形であるが安定しており、地すべりの危険度は少ない。ただし段丘堆積層や岩屑の小規模な崩壊は起こりうるが大体良質な地質といえよう」とした[84]
  52. ^ この風化はトンネル設計において当時通常行われていた弾性波調査やボーリング調査では発見できない、局部的な変化であり、事故発生後の精密な調査の結果初めて判明したとされる[137]
  53. ^ ただし将来の交流化への改修が可及的に簡単になるよう配慮されている[147]
  54. ^ 新潟県は佐渡島内と糸魚川市旧青海町の一部を除き周波数50 Hzであり、仮に糸魚川以東に接続点がずれた場合、両周波数対応の機関車の製作か、機関車の付替が必要となる[147]
  55. ^ 坂町駅以北の電化方式についてこの時点では「今後の検討事項[147]」であったが、翌1965年(昭和40年)2月18日の国鉄第316回理事会で奥羽本線の交流電化が決定し[149]、同年3月3日の国鉄第342回常務会で羽越本線村上駅 - 間島駅間で交直接続とすることが決定している[151]
  56. ^ このため新線は開通以来交直両用車両、もしくは内燃動力車が定期運用に用いられている。
  57. ^ 当時、碓氷峠区間(横川駅 - 軽井沢駅間)で補機として運用されていたEF63形電気機関車と協調運転可能な交直流特急形電車が存在せず(489系は1972年登場)、連結両数など編成・運用面の制約が存在したため。
  58. ^ 上野07:40 - 金沢15:30→上野07:50 - 金沢14:25
  59. ^ 直江津12:38 - 富山14:40→直江津12:06 - 富山13:34
  60. ^ 富山16:56 - 直江津18:02 この間無停車。
  61. ^ 大島 (2004)の大島とは別人。

出典

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  167. ^ 高田河国 (2018).

新聞

  1. ^ 「地下150メートルで乾杯 北陸線の浦本トンネル貫通 複線電化にあと一歩」『読売新聞』読売新聞社、1968年3月15日、新潟読売B。
  2. ^ 「湯殿トンネルが貫通 北陸線」『読売新聞』読売新聞社、1968年2月22日、新潟読売B。






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