実らなかった永仁勅撰の議
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「玉葉和歌集」の記事における「実らなかった永仁勅撰の議」の解説
永仁元年8月27日(1293年9月28日)、伏見天皇は二条為世、京極為兼、飛鳥井雅有、九条隆博の四名に勅撰和歌集撰集について諮問した。これを永仁勅撰の議と呼ぶ。諮問当日、天皇は病気で不参の飛鳥井雅有以外の三名に、撰集の下命は何月が良いか、下命の形式、歌を撰ぶ範囲、そして当時の勅撰和歌集撰集の際に慣例となっていた応製百首詠進の勅命はいつ下すのがよいかについて尋ねた。下命の形式は三名とも綸旨によるべきであるとし、応製百首詠進の勅命についても撰集の下命の前後どちらでも構わないと意見が一致したが、あとの二点については意見が分かれた。まず撰集の下命は何月が良いかについては、二条為世は後撰和歌集の佳例に倣って10月が良いとしたが、京極為兼はこれまでの勅撰和歌集の下命が行われた月が、特に決まりはなくばらばらであることを指摘した上で、特に決まった月に行う決まりがない以上、当月(8月)で良いとした。九条隆博は為兼の意見に賛同した。 そして和歌集撰集の根幹に関わる、歌を撰ぶ範囲については、為世はこれまでの勅撰和歌集撰集によって良い古歌はあらかた撰び尽くされているので、上古の和歌は撰ばず、それ以降の和歌から撰ぶのがよいとした。一方、為兼は天皇は古風を尊んでおられるので、上古の和歌も対象とすべきであると主張した。ここでも隆博は為兼の意見に賛同し、結局二条為世と京極為兼の対立点はともに為兼の意見が通り、即日、これまで勅撰集に撰ばれなかった上古以来の和歌を撰ぶよう、勅撰和歌集撰集の綸旨が下された。また撰者も伏見天皇が諮問した二条為世、京極為兼、飛鳥井雅有、九条隆博の四名に命じられた。その後冷泉為相は自らも撰者に加わりたいと自薦し、二条為世は撰者を辞退し、冷泉為相を厳しく批判した上で自らの息子である二条為道が撰者にふさわしいと推薦したが、冷泉為相、二条為道とも撰者に加わることはなかった。 この伏見天皇の勅撰和歌集撰集の経緯は、天皇が寵臣京極為兼が主導する形での勅撰和歌集撰集を実現するため、為兼と相談の上、仕組んだものと考えられている。もちろん京極為兼単独で撰集する形がベストであったが、為兼は和歌宗家の御子左家庶流の一人であり、単独での撰者とするには無理があった。そこで和歌宗家の御子左家嫡流の二条為世を撰者の筆頭に立てながら、為兼とともに、当時、歌道の長老であった飛鳥井雅有、九条隆博の二名も撰者に加えることによって二条為世の動きを封じ込め、伏見天皇、為兼の思うような和歌集を作りあげようと考えたものとみられる。実際、天皇の諮問についての為兼、為世の対立点は全て為兼の意見が通っていることや、諮問後即座に勅撰和歌集撰集の綸旨が下されたことからもそのように推察できる。 しかしこの時の勅撰和歌集撰集の綸旨は実ることがなかった。まず応製百首詠進の勅命が下されることはなかった。これは永仁期頃は京極為兼が主導する京極派の和歌の実力が低く、応製百首の実現に堪えられなかったのではとの説と、百首詠進の命を下す手続きに手間取っているうちに機を逸してしまったのではとの説がある。また歌道家の間では為兼に対する批判が高まっており、永仁3年(1297年)には、京極為兼の和歌を痛烈に批判した歌論書、『野守鏡』が書かれた。 そうこうしているうちに、永仁4年5月15日(1296年6月17日)、京極為兼は権中納言を辞任して籠居し、永仁6年1月7日(1298年2月20日)六波羅探題により拘引された。そして永仁6年3月16日(1298年4月28日)には佐渡島に遠流となった。勅撰和歌集編纂の中核を担うべき京極為兼の失脚、流罪とともに、永仁6年には撰者の一人、九条隆博が亡くなり、また為兼の後ろ盾であった伏見天皇が譲位して後伏見天皇が即位し、それに伴い皇太子は大覚寺統の後宇多上皇の皇子である邦治親王となった。これにより持明院統から大覚寺統に政権が交代することは既定路線となった。そして正安3年(1301年)には後伏見天皇が譲位し、伏見上皇は治天の君の座を離れて大覚寺統の世となり、同年には撰者の飛鳥井雅有が亡くなった。こうして永仁勅撰は挫折を余儀なくされた。 永仁勅撰の議は挫折を余儀なくされたが、もしこの時、伏見天皇と京極為兼のもくろみ通りの勅撰和歌集撰集に成功したとしても、当時の為兼や伏見天皇の和歌の水準はまだまだ未熟であり、これまでの勅撰集とさして変わり映えがしないか、むしろただ伝統を破壊しただけの中途半端なものに終わったと考えられる。流罪となった京極為兼、そして治天の君の座を離れた伏見上皇を中心として、妃の永福門院ら、為兼の歌風を信奉する持明院統宮廷グループは、再起を期して和歌の研鑽を深めていった。
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