実を結んだ自己アピール
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「ジョーン・クロフォード」の記事における「実を結んだ自己アピール」の解説
自身に割り当てられる役柄が端役で、つまらない役ばかりだったために苛立ちをつのらせていたクロフォードは、自分から積極的に売り込んでいくことを決心した。MGMの脚本家フレデリカ・サガー (Frederica Sagor Maas) は「誰もジョーンをスターにしようとは思っていなかった。ジョーンがスターになったのは、ジョーンがスターになると決めたから」と振り返っている。午後にダンスを練習し、夜はハリウッド周辺のホテルで開催されていたチャールストン・ダンスやブラックボトム・ダンス (Black Bottom) の大会で優勝して顔を売っていった。 クロフォードの自己アピールは実を結び、1925年のエドマンド・グールディング監督作品『三人の踊子 (Sally, Irene and Mary)』で、主役の一人である売れないコーラスガールのアイリーンを演じて観客の目を引いた。また、この年にはノーマ・シアラーの主演作品『夜の女 (Lady of the Night)』にも出演している。この作品での役割はシアラーのボディダブルで、クロフォードの顔が映し出される場面はごくわずかしかない。クロフォードはシアラーが演じる役柄を切望していたが、MGMで絶大な権限を持っていた大物プロデューサーであるアーヴィング・タルバーグと結婚していたシアラーが一番に優遇されるのは当然のことだった。クロフォードは「どうやったってノーマには勝てっこないわ」「彼女はボスと寝てるのよ」とこぼしている。 翌1926年にクロフォードは、メアリー・アスター、メアリー・ブライアン (Mary Brian)、ドロレス・コステロ、ドロレス・デル・リオ、ジャネット・ゲイナー、フェイ・レイらとともに、WAMPAS (Western Association of Motion Picture Advertisers) が選ぶ13名のスター候補 (WAMPAS Baby Stars) の一人に選出されている。クロフォードが1926年に出演した作品には『巴里 (Paris)』がある。クロフォードは、当時のMGMの看板俳優であるラモン・ノヴァロ、ウィリアム・ヘインズ、ジョン・ギルバート、ティム・マッコイ (Tim McCoy) らに恋心を抱くようになっていった。クロフォードは『知られぬ人』(1927年)でロン・チェイニーと共演した。チェイニーはナイフ投げ芸人のアロンソ、クロフォードは半裸でナイフ投げの的をつとめるアシスタントで、アロンソとの結婚を夢見るナノンを演じた。クロフォードは自身の女優としてのキャリアのなかで、チェイニーの演技から学んだことが何よりも大きかったとしている。「そのときが初めてでした」「カメラの前に立つこととカメラの前で演技することの違いに気づいたのは」と語っている。また、この1927年には『Spring Fever』で親友のウィリアム・ヘインズと最初の共演を果たしている。 クロフォードは1928年の『シンガポール (Across to Singapore)』で、ラモン・ノヴァロの相手役を演じている。そして同年の『踊る娘達』のダイアナ・メッドフォード役で、クロフォードは一躍スター女優の座を手に入れた。クロフォードはこの作品で、1920年代の流行の最先端をいく女優というイメージを確立し、ハリウッドでもっとも有名なフラッパーとなったのである。『踊る娘達』の後の作品も大ヒットを続け、クロフォードを崇拝する大勢のファンが生まれた。ファンの大部分は女性であり、クロフォードはアメリカ全土における自由奔放な女性の象徴に祭り上げられていった。アメリカの小説家F・スコット・フィッツジェラルドは、クロフォードについて次のように述べている。 ジョーン・クロフォードは間違いなく本物のフラッパーの見本だ。とびきり洗練された格好でナイトクラブを楽しみ、氷の入ったグラスをもてあそぶ。わずかに不機嫌そうな様子でダンスに興じ、目を見開いて大声で笑ったかと思うと、傷ついたような目をして惑わせる。人生を楽しむ才能にあふれた女性だよ。 1929年6月3日に、クロフォードは俳優の礼拝堂と呼ばれるマンハッタンの聖マラキ・ローマカトリック教会で、俳優ダグラス・フェアバンクス・ジュニアと結婚式を挙げた。その名の通りにこの教会はローマ・カトリック教会だが、クロフォードもフェアバンクスもカトリック信者ではなかった。フェアバンクスは俳優ダグラス・フェアバンクス・シニアの息子で、女優のメアリー・ピックフォードの義息にあたる。フェアバンクス・シニアとピックフォードはこの結婚に反対で、結婚後八カ月にわたって二人を自分たちの邸宅「ピックフェア (Pickfair)」に招くことはなかった。後にクロフォードとフェアバンクス・シニアの関係は修復され、クロフォードはフェアバンクス・シニアを「ダグおじさま (Uncle Doug)」、フェアバンクス・シニアはクロフォードを幼いときの愛称だった「ビリー」と呼び合う仲になっている。初めてフェアバンクス・シニアの邸宅に招き入れられて以来、二人はよくフェアバンクス・シニアの邸宅を訪れるようになったが、このことはクロフォードには苦痛だった。フェアバンクス親子がゴルフにでかけると、クロフォードはピックフォードと二人きり、あるいは一人で留守番をしなければならなかった。 クロフォードには南部訛りがあり、自身の言葉遣いや口調の矯正に根気よく取り組んでいた。 当時の私は台詞の練習をするときに、自分自身に語りかけるように読み上げていました。耳に入ってくる自分の声の抑揚や発声を注意して聞き取ったりしながら、正しい言葉遣いを学ぶのがいいやり方だと思っていたのです。部屋に鍵をかけて閉じこもり、新聞、雑誌、書籍を声を出しながら読みました。手元にはいつも辞書を置いていました。発音が分からない単語が出てくると辞書を引き、正確な発音を15回ほど繰り返したものです。 フェアバンクス・ジュニアと結婚した1929年に、クロフォードは最後のサイレント映画となる『Our Modern Maidens』に出演し、最初のトーキー映画となる『花嫁修業 (Untamed)』でロバート・モンゴメリーと共演している。『花嫁修業』の興行成績は目ざましく、クロフォードのトーキー映画への移行は成功を収めた。
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