女優としてのキャリア
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「アンナ・イーストエデン」の記事における「女優としてのキャリア」の解説
イーストエデンは女優としてのキャリアを日本、台湾、そしてアメリカでのテレビCMから始める。彼女の最初の出演作品はシカゴのDowner's Grove Tivoli劇場 (en) での舞台『眠れる森の美女』での眠り姫役。また、Who Wants to Be a Superheroの悪役、『ビースティング』への出演でも知られている。他のテレビ出演作には『Bones』Passions、『デイズ・オブ・アワ・ライブス』がある。
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女優としてのキャリア
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「J・ジャヤラリター」の記事における「女優としてのキャリア」の解説
チェンナイのステラ・マリス大学(英語版)に入学したが、母親に映画業界に入るよう説得され、それを受け入れ女優としてデビューすることになった。女優として初出演をしたカンナダ語映画(Chinnada Gombe)は、1964年に公開され大ヒットしている。1965年にはタミル語映画(Vennira Aadai)でもデビューし主演をつとめた。さらにその後は、タミル語、テルグ語、カンナダ語の映画に140本も出演してきた 。
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女優としてのキャリア
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「パール・ホワイト」の記事における「女優としてのキャリア」の解説
ホワイトは高校2年生のときにディーマー劇団に加わり、女優としての研鑽を積んでいった。無事に高校を卒業することを望んでいた父の期待とは裏腹に、ホワイトは高校を中退している。この直後の1907年、18歳のときに、ホワイトはトラウズデイル劇団に参加し、昼間に家事手伝いをするかたわら、夜になると劇団の舞台に立つようになった。その後まもなくフルタイムで劇団で働くようになり、劇団とともにアメリカ中西部を巡業することになる。そしてホワイトはニューヨークのパワーズ映画会社に見いだされ、数年間にわたって端役を演じ続けた。当時のホワイトは「ミス・メイジー」という芸名をつけられて、キューバのダンスホールでアメリカの楽曲を歌わされることもあったといわれている。歌手として南アメリカを巡業し、カジノやダンスホールの舞台に立った。1910年にホワイトは喉を傷め、その声質が舞台での夜公演に耐えうるものではなくなっていった。ホワイトが映画デビューしたのはこの年である。この映画は、パワーズ映画会社がブロンクスで公開した、一連のコメディドラマの小作品だった。パワーズ映画会社で、ホワイトは身体を張ったコメディーの技能とスタント技術に磨きをかけていく。ホワイトは人気女優となり、フランスの映画会社パテ兄弟社の目に留まることになる。 1910年にホワイトは、パテ兄弟社から映画『アリゾナから来た少女』出演のオファーを受けた。本作は、パテ兄弟社がニュージャージー州のバウンド・ブルックに新築したスタジオで撮影することになっており、フランスのパテ兄弟社が初めてアメリカで撮影する作品だった。1911年にホワイトはルービン・スタジオ (en:Lubin Studios) の仕事も受けるようになり、数本の自主映画に出演している。1912年から1914年にかけては、マンハッタンのクリスタルフィルム・カンパニーが制作した多くのスラップスティック・コメディ映画で主役を演じた。ホワイトはその後休暇を取ってヨーロッパを旅し、アメリカ帰国後の1914年にパテ兄弟社の子会社であるエクレティック・フィルム・カンパニーと契約した。 パテ兄弟社の監督ルイ・ガスニエ (en:Louis J. Gasnier) がホワイトに、チャールズ・ゴダード (en:Charles W. Goddard) 脚本の連続活劇映画『ポーリンの危難』(1914年公開開始)への出演を依頼した。『ポーリンの危難』は、激しいアクションを要求される女主人公ポーリンを主役とした作品であり、運動神経に恵まれていたホワイトにとってまさにうってつけの役どころだった。全20話が制作され、毎週1話ずつ公開された『ポーリンの危難』は評判を呼び、ホワイトは週に1,750ドルを稼ぎ出す人気女優となっていった。ホワイトは『ポーリンの危難』の後に『拳骨』(1914年)に出演し、この作品でも大成功を収めている。その後5年の間に、『拳骨』(1915年)、『エレーヌ物語』(1915年、『鉄の爪』(1916年)、『陸軍のパール』(1916年-1917年)、『運命の指輪』(1917年)、『家の呪い』(1918年)、『電光石火の侵入者』(1919年)、『暗黒の秘密』(1919年-1920年)と、有名な連続活劇作品に出演している。これらの作品中でホワイトは、飛行機の操縦、車の運転、川を泳ぎ切るなどのアクションシーンを多くこなした。他にも様々なアクションシーンを演じていたが、もっとも集客力のある女優だったホワイトが怪我をすることを恐れたパテ兄弟社は、そのような役どころをホワイトに与えることを控えるようになっていった。しかしながら、すでにホワイトは『ポーリンの危難』の撮影中に脊椎を痛めており、ホワイトは後年になってから、この怪我の後遺症に苦しめられるようになった。 後期の作品でホワイトが演じたアクションシーンは、かつらを着用した男性の役者が吹き替えていたが、パテ兄弟社がアクションシーンはそれぞれの役者が演じていると公表していたため、ホワイトのアクションシーンが吹き替えであることに観客のほとんどは気付いていなかった。しかしながら1922年8月に、観客は真実を知ることとなる。ホワイトが出演する最後の連続活劇となった『プランダー』の撮影中に、ホワイトのアクションシーンを吹き替えしていた男優ジョン・スティーヴンソンが、72番街を走行するバスの屋上から高い桁へと飛び移るスタントに失敗した。そして頭部を強打したスティーヴンソンが、頭蓋骨骨折で死亡したことが報道されたのである。ホワイトは『プランダー』の撮影終了後に休暇を取り、ヨーロッパへと旅立った。 1919年頃には、ホワイトは連続活劇に嫌気を感じるようになり、スタントではなく演技力が要求される役どころを求めてフォックス・フィルム社(現在の20世紀フォックスの前身となった映画会社の一つ)と契約した。その後の2年間でホワイトは10本のフォックス・フィルム社のドラマ映画作品に出演したが、ホワイトの人気は徐々に低迷していった。
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女優としてのキャリア
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「カトリーナ・バルフ」の記事における「女優としてのキャリア」の解説
ニューヨークに住んでいた頃、映画『プラダを着た悪魔』(2006年)に雑誌『ランウェイ』の社員として端役で出演した。2009年、拠点をニューヨークからロサンゼルスへ移し、ワーナー・ローリン・スタジオやサンフォード・マイズナー・センター、ジュディス・ウェストン・スタジオで1年半をかけて演技を学んだ。2011年に『SUPER8/スーパーエイト』で主人公の母親役を、2013年に『グランド・イリュージョン』でマイケル・ケイン演じるキャラクターの妻役を、『大脱出』でシルヴェスター・スタローン演じるレイ・ブレスリンを雇うCIAの弁護士役を演じた。 2012年、トファー・グレイス演じる青年アレックスが毎日異なる肉体でストーリーを語る全6エピソードのソーシャル・フィルム"The Beauty Inside" にアレックス#34役で出演。2013年、イギリスのミュージシャン・ボノボの"First Fires" や、フランスのバンド・フェニックスの"Chloroform (song)" のミュージックビデオに出演した。後者の監督はソフィア・コッポラだった。 2012年から2013年にかけて、ワーナー・ブラザースのウェブシリーズ『H+ デジタルシリーズ』のメインキャスト、24時間いつでもインターネットに接続できるようコンピュータを埋め込まれたヒトの開発を行うバイオテクノロジー企業の幹部役ブレナ・シーハン役で出演。 2013年9月、ダイアナ・ガバルドンのベストセラー小説を原作とするStarzのテレビシリーズ『アウトランダー』の主役クレア・ビーチャム・ランダル・フレイザー役であることが判明し、2014年8月にプレミア上映が行われた。バルフが演じるのは、戦争で荒廃する18世紀のスコットランドのハイランド地方へとタイムスリップしてしまう20世紀半ばの看護婦役である。バルフの演技だけでなく作品そのものも絶賛され、『ヴァニティ・フェア』のリチャード・ローソンは「バルフが非常に魅力的で、彼女のおかげでクレアという女性が大変活発で勇ましいヒロインたりえている」と述べ、『ハリウッド・リポーター』のティム・グッドマンは「彼女の演技がクレアという女性に陰影を与えていて、彼女が間違いなく素晴らしい女優であり、それだけでも見る価値がある作品だ」という記事を書いた。『エンターテインメント・ウィークリー』のジェフ・ジェンスンは「バルフがスターになる時が来た」と述べ、『タイム』のジェームズ・ポニウォジックは「(クレアに)伝染するように夢中になる」と評した。 2014年12月、『エンターテインメント・ウィークリー』はバルフを「2014年にブレイクした12人」の1人に数え、BBCアメリカの「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」にも投票された。 2015年1月29日、ジョディ・フォスターが監督を務め、ジョージ・クルーニーとジュリア・ロバーツが主演する映画『マネーモンスター』に出演することが発表された。 同年4月、第12回アイルランド映画・テレビアカデミー賞の主演女優賞にノミネートされ、雑誌『ピープル』で「世界で最も美しい50人」の1人となった。6月25日、サターン主演女優賞(テレビ部門)を受賞した。
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女優としてのキャリア
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「プリシラ・プレスリー」の記事における「女優としてのキャリア」の解説
エルヴィスの初期の多くの映画に出資していたハリウッド・プロデューサーのハル・B・ウォリスはプリシラとの契約に興味を示していた。しかしエルヴィスは当時の通例通り「妻は家で夫を支えるべき」との考えを持ち、いかなる仕事もさせるつもりはなかった。プリシラ自身はダンスやモデルに興味を持っていたが、エルヴィスはプリシラがそれをあくまで趣味の範囲として仕事として考えていないものと思っていた。プリシラが地元のとある店舗でモデルの機会を得た際、エルヴィスはそれを止めた。 ドラマ『チャーリーズ・エンジェル』でエンジェルの1人をオファーされていたが、プリシラの好みと合わず断った。プリシラは、ウィリアム・モーリス・エージェンシーと契約した。1980年、ABCの『Those Amazing Animals』で、ホストとしてテレビ・デビューを果たした。1983年、人気テレビ・ドラマ『俺たち賞金稼ぎ!!フォール・ガイ』シーズン2「Manhunter」で女優デビューし、サブリナ・コールドウエル役を演じた。その後、マイケル・ランドン主演のテレビ映画『Love is Forever』に出演した。出演者やスタッフからの扱いは良く、プリシラの演技について多くの共演者らの評価も高かったが、セットでのランドンとの相性は良くなかった。又、同年より出演している、CBSの人気テレビ・シリーズ、『ダラス』においても、ジェナ・ウェイド役を5年間にわたって演じた。ジェナ役を演じた女優はプリシラで3人目であったが、最も長くジェナ役を演じた。1984年、『ダラス』におけるジェンナ・ウェイド役での演技が認められてSoap Opera Digest Awardを受賞した。 1988年、映画『裸の銃を持つ男』シリーズに出演し、レスリー・ニールセンの相手役のヒロイン、ジェーン・スペンサー役を演じた。続編『裸の銃を持つ男 PART2 1/2』(1991年)、『裸の銃を持つ男 PART33 1/3 最後の侮辱』(1994年)にも出演して3作ともヒットし、これら一連のシリーズはプリシラの代名詞ともなった。この間、アンドリュー・ダイス・クレイ主演の『フォード・フェアレーンの冒険』(1990年)に出演した。1990年代半ばから終盤にかけ、ヒット番組『メルローズ・プレイス』、『Touched by an Angel』、『スピン・シティ』にゲスト出演した。 2012年のクリスマス、ロンドンのウィンブルドンにある新ウィンブルドン劇場にて上演された『Snow White and the Seven Dwarfs』でワーウィック・デイヴィスと共演し、パントマイムを披露した。
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女優としてのキャリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 06:38 UTC 版)
「ジャーンヴィ・カプール」の記事における「女優としてのキャリア」の解説
2018年にシャシャーンク・カイターン(英語版)監督のロマンス映画『ダダク(英語版) Dhadak』でデビューし、イシャーン・カッター(英語版)と共演した。これは2016年のマラーティー語映画『Sairat』のヒンディー語リメイクで、ジャーンヴィは上流階級の少女を演じた。彼女はカッター演じる下層階級の少年と駆け落ちした後、悲劇的な人生を歩んでいくことになる。この映画には否定的な評価が多かったものの、全世界で11億ルピーの興行収入を記録し、商業的には成功を収めた。評論家のラジーヴ・マサンドは、CNN-News18の記事でこの映画がカーストに関わる言及を削除したことを批判し、原作よりも劣るとみなしたが、ジャーンヴィについては「一瞬で人の心をひきつけるような儚さと、スクリーン上の彼女から目が離せなくなるような魂のこもった特質を持っている」と感じたと書いた。一方『ファーストポスト』のアンナ・M・M・ヴェッティキャドは、彼女が「個性に欠け、色のない演技をしている」と考えた。この作品でジャーンヴィは、ジー・シネ・アワードの最優秀新人女優賞を受賞した。同年、化粧品ブランド「ナイカ Nykaa」のブランド・アンバサダーに抜擢された。 次の出演作は、2020年、Netflixのホラー・アンソロジー映画『恐怖のアンソロジー(英語版)』のゾーヤー・アクタルのパートである。『インディアン・エクスプレス』紙のシュブラ・グプタはこのパートを好まないとしながら、「唯一本当に驚かされたのは、しっかりとした本物の演技をしたジャーンヴィ・カプールである」と付け加えている。その後、彼女は伝記映画『グンジャン・サクセナ -夢にはばたいて- Gunjan Saxena』で戦闘機パイロットのグンジャン・サクセナ(英語版)役を演じた。この作品はCOVID-19の流行により劇場公開されず、Netflixでストリーミング配信された。役作りのため、ジャーンヴィはサクセナと一緒に時間を過ごし、フィジカル・トレーニングを受け、空軍将校のボディランゲージを学んだ。サイバル・チャテルジーは、NDTVで彼女の演技を「まずまず堅実」と評し、Rahul Desaiは、「Film Companion」で彼女の「表面上はプライベートな演技」を「一分の隙もない(pitch-perfect)」と、より高く評価した。 2021年のコメディ・ホラー映画『Roohi』ではラージクマール・ラーオと共演し、一人二役を演じた。また、『Dostana 2』ではカールティク・アールヤン(英語版)、ラクシュ・ラールワーニー(英語版)と共演した。また、カラン・ジョーハル監督の『Takht』に出演予定である。
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女優としてのキャリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 10:29 UTC 版)
「エドナ・パーヴァイアンス」の記事における「女優としてのキャリア」の解説
1915年、チャップリンはエッサネイ社と契約し、カリフォルニア州ナイルズ(現フリーモント市)の撮影所で2作目の映画『アルコール夜通し転宅』(A Night Out)を撮影していた。チャップリンはその作品のヒロインとなる女優を探していたところ、スタッフの一人がエドナを紹介する。チャップリンはエドナと面会し、初印象を「可愛いなどという程度ではなく、まったく美しかった」と語っている。だが、チャップリンはエドナが「喜劇には不向きである」と感じた。しかし、結局エドナはその役を射止め、チャップリン映画の主演女優として、それ以降ほとんどすべての作品で共演することとなる。 チャップリンとエドナは、1915年から1917年の間、公私共々恋愛関係にあった。エドナが出演したチャップリン映画は34本に及び、その中には1921年封切りの『キッド』のような古典的名作も含まれる。エドナが出演した最後のチャップリン作品は1923年の『巴里の女性』で、彼女の初主演作でもあった。その後、エドナはもう2本の映画に出演している。1つは1926年作、チャップリンがプロデューサーになり、ジョセフ・フォン・スタンバーグが監督した『かもめ』 (The Sea Gull)(またの題名を『海の女性』(A Woman of the Sea)) で、エドナは再び主演を務めた。しかし、この作品は一度も公開されることなく、現在ではネガも現存していないとされる。次にエドナが出演し、彼女の最後の出演作となったのは、1927年公開のフランス映画、『王子教育』(Éducation de Prince)。この作品を最後にエドナは女優業を引退するが、チャップリンは彼女が亡くなるまで「チャップリン・スタジオの専属女優」として週に150ドル、出演料の支払いを続けた。
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女優としてのキャリア
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「オリヴィア・デ・ハヴィランド」の記事における「女優としてのキャリア」の解説
デ・ハヴィランドは1935年10月に公開された、マックス・ラインハルトの監督作品『真夏の夜の夢 (en:A Midsummer Night's Dream)』で映画デビューした。その後もコメディアンのジョー・E・ブラウン (en:Joe E. Brown) 主演の『ブラウンの怪投手 (en:Alibi Ike)』(1935年)、ジェームズ・キャグニー主演の『頑張れキャグニー (en:The Irish in Us)』(1935年)と、立て続けに3本のコメディ映画に出演している。 これら3本のコメディ映画に対する評価は賛否両論であり、デ・ハヴィランドに対する観客からの反応はよくなかった。ワーナー・ブラザースはデ・ハヴィランドを売り出す路線を変更することを決め、当時無名だったオーストラリアの俳優エロール・フリンの相手役として『海賊ブラッド』(1935年)に出演させるという賭けに出た。デ・ハヴィランドが起用されたのは、ワーナー・ブラザースのプロデューサーであるハル・B・ウォリスが、デ・ハヴィランドとのことを「お気に入り」で売り出したかったためだという要因もあった。『海賊ブラッド』は大ヒットし、批評家たちも主演した二人の役者を高く評価した。このため、デ・ハヴィランドとフリンの共演作品が次々と製作されることとなり、『進め龍騎兵 (en:The Charge of the Light Brigade)』(1936年)、『ロビンフッドの冒険』(1938年)、 『無法者の群)』(1939年)、『カンサス騎兵隊 (en:Santa Fe Trail)』(1940年)、『壮烈第七騎兵隊』(1941年)など、合計8本の映画が製作されている。 1930年後半にデ・ハヴィランドは、『Call It a Day』(1937年)、『結婚スクラム (en:Four's a Crowd)』(1938年)、『Hard to Get』(1938年)などさまざまな内容の現代風ライトコメディ作品に出演している。現代風コメディ以外の作品としては『風雲児アドヴァース (en:Anthony Adverse)』(1936年)、『The Great Garrick』(1937年)などに出演しており、これらの作品では、デ・ハヴィランドの洗練された容姿と美しい台詞回しが効果的に描写されている。コメディ映画でのデ・ハヴィランドの演技は批評家からも観客からも概ね好評であり、デ・ハヴィランドが演じたいと望んでいたシリアスで重厚な役どころへと踏み出すきっかけとはならなかった。そのような中で『風と共に去りぬ』(1939年)のメラニー・ハミルトンは、まさしくデ・ハヴィランドが求めていたシリアスな役だった。マーガレット・ミッチェルが書いた大河小説『風と共に去りぬ』を原作とするこの映画は、大物プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックが製作した大作である。原作小説を読んだデ・ハヴィランドは、このメラニー・ハミルトンが自分にとって大きな転機となる役だと直感した。『風と共に去りぬ』の監督に起用されたジョージ・キューカーが、デ・ハヴィランドの妹ジョーン・フォンテインにこのメラニー・ハミルトン役のオーディションを受けるよう勧めたという複数の資料が存在する。しかしながら、メラニー役よりも主役のスカーレット・オハラに興味を持っていたフォンテインはキューカーの誘いを断ったとされており、自分の代わりに姉デ・ハヴィランドをキューカーに推薦したといわれている。最終的にはワーナー・ブラザースの社長ジャック・ワーナー (en:Jack L. Warner) の妻アンが、デ・ハヴィランドのメラニー役起用を後押ししている。そして『風と共に去りぬ』でメラニーを演じたデ・ハヴィランドは、アカデミー助演女優賞にノミネートされた。しかしながらこの年のアカデミー助演女優賞を受賞したのは、同じく『風と共に去りぬ』でスカーレットの黒人の召使マミー役を演じた女優のハティ・マクダニエルだった。 1941年11月28日にデ・ハヴィランドはアメリカに帰化した。 『風と共に去りぬ』のメラニー役で批評家たちから絶賛されたデ・ハヴィランドは、それまでにも増してシリアスで難しい役どころを演じてみたいと考えていた。しかしながらワーナー・ブラザースはデ・ハヴィランドの期待には応えなかった。『女王エリザベス (en:The Private Lives of Elizabeth and Essex)』(1939年)で、主役のベティ・デイヴィスとエロール・フリンに次ぐ三番目の役を演じたデ・ハヴィランドは、犯罪ドラマ映画『犯人は誰だ (en:Raffles)』(1939年)への出演を命じられて、ワーナー・ブラザース外部の映画プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンに預けられている。また、次作のライトコメディミュージカル映画『My Love Came Back』(1940年)の主役も決まっていた。1940年代前半のデ・ハヴィランドは、演じがいがなく浅薄だと自身が思う役ばかりに起用されることに対して大きな不満を持つようになっていった。『風と共に去りぬ』のメラニー・ハミルトン役で、シリアスな役どころも演じる能力があることを証明したと考えていたデ・ハヴィランドにとって、以前と変わらない純情な娘役や可憐な乙女役は苦痛でしかなかったのである。デ・ハヴィランドはこれまで同様の内容と配役で書かれた脚本を突き返すようになり、自身が望むやりがいのある役を積極的に探していった。さらにデ・ハヴィランドは、『カンサス騎兵隊』や『壮烈第七騎兵隊』など評判がよかったエロール・フリンとの長きにわたる共演も終わらせた。共演した最後の作品である『壮烈第七騎兵隊』はもっとも長く二人が語り合う場面が描写された作品となっている。 1940年代前半にデ・ハヴィランドが出演した映画でヒットした作品として『いちごブロンド (en:The Strawberry Blonde)』(1941年)、『Hold Back the Dawn』(1941年)、『カナリヤ姫 (en:Princess O'Rourke)』(1943年)などが挙げられる。『カナリヤ姫』で演じたマリア王女は、ワーナー・ブラザースで演じた役のうち、デ・ハヴィランドにとってもっとも満足のいく役どころだった。デ・ハヴィランドは第14回アカデミー賞で、『Hold Back the Dawn』のエイミー・ブラウン役で主演女優賞にノミネートされた。 デ・ハヴィランドは、ワーナー・ブラザース作品の『男性 (en:The Male Animal)』(1942年)、『追憶の女 (en:In This Our Life)』(1942年)、『陽気な女秘書 (en:Government Girl)』(1944年)、『まごころ (en:Devotion)』(1946年)に出演した。『まごころ』の公開年は1946年だが撮影自体は1943年に終了しており、公開年としてはこの『まごころ』がデ・ハヴィランドの7年間にわたるワーナー・ブラザースとの契約における最後の出演作品となった。ワーナー・ブラザースはデ・ハヴィランドに6カ月の契約延長を告げたが、デ・ハヴィランドはこの申し入れを受け入れなかった。当時の法律では、契約中の俳優が製作会社から提示された配役を拒否した場合には、その作品の撮影期間を契約期間に加算延長することを認めており、ほとんどの俳優はこの慣例のもとでの契約を受け入れていた。しかしながらこの契約形態に疑問を持つ俳優も少数ながら存在し、1930年代にベティ・デイヴィスがワーナー・ブラザースに訴訟を起こしたことがあったが最終的には敗訴している。デ・ハヴィランドは顧問弁護士の助言と全米映画俳優組合の後押しを受けて、1943年8月にワーナー・ブラザースを相手取って出演拒否に対する契約期間延長処置への訴訟を起こした。この訴訟を審理したカリフォルニア州最高裁判所はワーナー・ブラザースの異議を却下し、デ・ハヴィランドの勝訴とする判決を下した(判例 #487, 685)。それまでの製作会社の絶大な権限を弱め、俳優たちにはるかに自由な創作活動の場を与えるというこの判決は、ハリウッド映画界に非常に重要で大きな影響を与えることとなった。デ・ハヴィランドが勝ち得たこの判例は、今でも「デ・ハヴィランド法 (en:De Havilland Law)」として知られている。製作会社を相手取って勝訴したデ・ハヴィランドは、俳優仲間たちから敬意と賞賛の的となった。デ・ハヴィランドと不仲だった妹のジョーン・フォンテインも「ハリウッドはオリヴィアに途方もなく大きな借りがあります」とコメントしている。敗訴したワーナー・ブラザースはデ・ハヴィランドに関する書簡をほかの製作会社に送りつけた。そしてデ・ハヴィランドは「ブラックリスト女優」とみなされて、その後2年間にわたって映画作品に出演することができなかった。 ブロンテ姉妹の生涯を大幅に脚色した映画で、1943年に撮影が終了していたもののワーナー・ブラザースとの訴訟期間中はお蔵入りとなっていた『まごころ』の公開後、デ・ハヴィランドはパラマウント映画と3本の映画に出演する契約を交わした。そしてこれらの映画で演じたさまざまな役柄への演技が、その後のデ・ハヴィランドの女優としてのキャリアを決定付ける先駆けとなった。ジェームズ・エイジーは『暗い鏡 (en:The Dark Mirror)』(1946年)について、デ・ハヴィランドがつねに「もっとも可憐な映画女優の一人だった」としつつ、近年の映画では優れた演技力を持つ女優であることも証明して見せたとしている。そして「その優れた才能」を表に出していない場面でさえも、デ・ハヴィランドの演技力が「思慮深く、内に秘めた細やかな演技を保ち続けている」と指摘した。さらにエイジーは、デ・ハヴィランドの演技が「豊かな才能だけでなく、(デ・ハヴィランドの)心身ともに健全で好ましい内面によるところが大きい。観ているだけで嬉しくなってしまう」と結んでいる。デ・ハヴィランドは『遥かなる我が子』(1946年)のジョゼフィン・ノリス役でアカデミー主演女優賞を受賞し、さらに『女相続人』(1949年)のキャサリン・スローパー役でアカデミー主演女優賞、ニューヨーク映画批評家協会主演女優賞、ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)を受賞した。『蛇の穴』(1948年)のヴァージニア・スチュアート・カニンガム役も高く評価され、アカデミー主演女優賞にノミネートされている。この『蛇の穴』は精神疾患を正面から描いた最初期の映画の一つで、「陰惨な精神病院の実態を暴き出した、ハリウッドの歴史に残る重要な作品」といわれている。デ・ハヴィランドがそれまでの美女役とはまったくかけ離れた役を演じた意欲と、議論が巻き起こるであろう作品に真っ向から取り組んだ姿勢は高く評価された。デ・ハヴィランドはこの『蛇の穴』でニューヨーク映画批評家協会主演女優賞、ナストロ・ダルジェント最優秀外国人女優賞、ナショナル・ボード・オブ・レビュー主演女優賞を受賞している。 この時期のデ・ハヴィランドは確固たる自由主義者で、民主党のフランクリン・ルーズベルトとハリー・S・トルーマンの支持者だった。自由主義への共産主義の浸透を憂慮していたデ・ハヴィランドは、1946年にある騒動を巻き起こし、マスコミにも大きく報道された。スターリン主義による残虐行為に関する報告会の場で、ハリウッド美術科学専門職の独立市民委員会が事前に用意した演説原稿から、親共産主義と思われる箇所を飛ばして読み上げたのである。この独立市民委員会は後に共産主義者の偽装組織だと認定されている。デ・ハヴィランドは、独立市民委員会の自由主義会員たちが一握りの上層部の共産主義会員に操られているのではないかと危惧するようになった。そして、1946年の中間選挙で民主党が大勝すれば、独立市民委員会の親ソヴィエト的な言動を抑制できると考えた。デ・ハヴィランドは、独立市民委員会を共産主義者から取り戻すための活動を始めたが、最終的にはこの活動は失敗し、デ・ハヴィランドに共鳴して改革派に加わったハリウッド業界人たちの多くが離脱するという結果となった。デ・ハヴィランドに説得されて改革派に加わっていた俳優にロナルド・レーガンがおり、その後1952年以降のレーガンの政治活動は劇的に変化していった。デ・ハヴィランドが自由主義の改革活動をあまりに主張したために、赤狩りの舞台となった下院非米活動委員会に1958年に召還されたこともあったが、女優としてのキャリアに傷がつくことはなかった。 1950年代以降、デ・ハヴィランドの映画出演は散発的になっていった。1951年に公開予定だった映画『欲望という名の電車』の主役ブランチ・デュボアを提示されたが、デ・ハヴィランドはこのオファーを断っている。このブランチ・デュボア役を拒否した理由について、脚本の内容が生理的に受け入れられなかったことと、口にしたくない台詞が多くあったためだといわれてきた。しかしながらデ・ハヴィランドは2006年にこの噂を否定し、幼い子供の世話に追われていたために役を受けることができなかったと語っている。最終的にブランチ・デュボア役は『風と共に去りぬ』でデ・ハヴィランドと共演したヴィヴィアン・リーが、ロンドンでの舞台版『欲望という名の電車』でブランチ役で演じたのに引き続いて映画版のブランチ役を受け、二度目のアカデミー主演女優賞を獲得した。 デ・ハヴィランドが1960年代に出演した数少ない作品の中で、もっともよく知られているのが『不意打ち』(1964年)で、デ・ハヴィランドはエレベーターに閉じ込められて乱入者に脅される未亡人コーネリア・ヒリヤード役を演じている。ほかの作品としてロバート・アルドリッチ監督作品『ふるえて眠れ』(1964年)、キャサリン・アン・ポーター (en:Katherine Anne Porter) の小説をサム・ペキンパー監督でテレビドラマ化した『昼酒 ( en:Noon Wine)』(1966年)が有名である。1965年にデ・ハヴィランドは、カンヌ国際映画祭で初の女性審査委員長に任命された。 デ・ハヴィランドは1970年代後半まで映画女優を続け、その後テレビ番組へと舞台を移して1980年代後半まで活動を続けた。1986年に出演したテレビ映画『アナスタシア/光・ゆらめいて』ではロシア皇后マリア・フョードロヴナを演じ、ゴールデングローブ助演女優賞 (ミニシリーズ・テレビ映画部門)を受賞している。
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女優としてのキャリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:19 UTC 版)
「ジョーン・フォンテイン」の記事における「女優としてのキャリア」の解説
フォンテインが女優としてデビューしたのはドディー・スミスが書いた戯曲で、1935年に上演された『Call It a Day』である。フォンテインはこの作品に出演後すぐに映画製作会社のRKOと出演契約を交わしている。映画での初出演となったのは1935年の『男子牽制』の端役で、このときのフォンテインはジョーン・バーフィールドという名前でクレジットされていた。 当時フォンテインが契約していたRKOはキャサリン・ヘプバーンに力を入れており、フォンテインには『A Million to One』(1937年)や『偽装の女』(1937年)といった作品の端役しか回ってこなかった。それでもRKOはフォンテインを将来見込みのある女優だと考え、『The Man Who Found Himself』のヒロインに抜擢し、「RKOの新たな女優」であるとエンドクレジットで紹介している。フォンテインが次に主役級を演じたのは、それまでジンジャー・ロジャースとの共演で成功を収めていたフレッド・アステアが、ロジャースと離れてRKOの作品に最初に出演した『踊る騎士 (A Damsel in Distress)』(1937年)だった。しかしながらこの作品は観客からは不評で、興行的にも失敗作となってしまった。その後のフォンテインは『ザ・ウィメン』など12本の作品で端役を演じ続けたが、大きな注目を集めることもなく、RKOとの契約は更新されることなく1939年に終了した。 不遇をかこっていたフォンテインの運命は、とある晩餐会でハリウッドの大物プロデューサーであるデヴィッド・O・セルズニックと隣席になったことで一変することとなる。フォンテインとセルズニックはこのとき、イギリスの小説家ダフネ・デュ・モーリアの作品『レベッカ』について語り合った。そしてセルズニックは、フォンテインにこの作品の映画版のヒロイン「わたし」役のオーディションを受けてみないかと薦めている。6カ月間にわたって数百人の女優が受けた過酷なオーディションに勝ち残り、『レベッカ』のヒロイン役に決まったのは、フォンテインが22歳の誕生日を迎える直前のことだった。 フォンテインとイギリス人俳優ローレンス・オリヴィエとの共演となった『レベッカ』は、イギリス人監督アルフレッド・ヒッチコックが初めて手がけたハリウッド映画でもあった。1940年に公開された『レベッカ』は大評判となり、フォンテインもアカデミー主演女優賞にノミネートされている。このときのアカデミー賞で主演女優賞を獲得したのは、『恋愛手帖』に出演したジンジャー・ロジャースだったが、翌1941年にケーリー・グラントと共演したヒッチコック監督作品『断崖』で、フォンテインはアカデミー主演女優賞を受賞した。ヒッチコックの監督作品が受賞したアカデミー賞の中で、このフォンテインの主演女優賞が唯一俳優に贈られたアカデミー賞となっている。 1940年代のフォンテインは恋愛メロドラマ作品に多く出演した。この時期の評価が高い作品として、3回目のアカデミー主演女優賞にノミネートされた『永遠の処女 (The Constant Nymph)』(1943年)をはじめ、『ジェーン・エア』(1944年)、『Ivy』(1947年)、『忘れじの面影』(1948年)などがある。1950年代になるとフォンテインの映画での人気は徐々に衰えを見せ始め、女優としての活動の場をテレビや舞台へと移すようになっていった。1954年に上演された舞台作品『お茶と同情 (Tea and Sympathy)』で、アンソニー・パーキンスの相手役ローラを演じて高く評価された。また1940年代には、ラジオの長寿番組『en:Lux Radio Theatre』に何度も出演している。
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