丁子屋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/21 00:45 UTC 版)
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丁子屋(ちょうじや)は、江戸時代には既に存在が確認されている、日本の古くからの屋号(商号)のひとつ。「丁字屋」という表記のバリエーションも存在する。
概要
丁子に由来する商号で、丁子の絵柄が含まれる家紋を持つ商家が名乗った。また、丁子に関する商売を行う者が屋号として使うケースもあった(とろろ汁・丁子油・香料・漢方薬など)。そこから広がって、植物に関係する職業(藍染屋)などでも、丁子屋の屋号は使われている。
丁子油は日本刀の手入れなどに使われるものであり、香料・漢方薬なども江戸時代には決して安いものではなかった。丁子屋を名乗る店は数多く存在したが、そういった事情である程度以上の商業資本家としての商家だったものも多い。そのため、明治維新以降も暖簾を守り続けている店も散見される。また、刃物の町として知られる大阪府堺市にも丁子屋の屋号が江戸時代から現在にいたるまで存続している。
関連項目
丁子屋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 07:33 UTC 版)
丁子屋(ちょうじや)は、鞠子宿の名物とろろ汁を提供する店の一つ。所在地は静岡市駿河区丸子七丁目10-10。 創業は戦国時代末期の1596年(文禄5年/慶長元年)で、以来400年間場所を変えずに営業している。当初はお茶屋であったと言われる。丁字とは、当時貴重品であった香辛料のクローブのことである。 本陣跡から西へ3分ほど歩いたところにあり、名物・とろろ汁のほか、御膳料理を食することができる。 歌川広重が描いた名物茶屋は、丁子屋と紹介されがちだが、当時とろろ汁を提供する茶店は複数店存在し、広重が描いた建物が丁子屋であるという明確な証拠は無く、浮世絵の解説でも、単に「名物茶屋」とだけ紹介されている。 丁子屋の茅葺き建物は、1970年(昭和45年)、法人化とともに12代目当主であり代表者となった柴山信夫が、五十三次に似せた店構えにするため、古民家を移築したものである。これは当時、丸子地区周辺がごく普遍的な農村地帯になりかわっていたこともあり、柴山が丁子屋がかつて松尾芭蕉や歌川広重らの訪問を受けていた事実を知ったことからこの伝統を呼び起こすべく丁子屋の建物を、五十三次に描かれた茅葺き建物と同様にすると言うアイディアから生まれたものであった。ほかにもかつての五十三次の宿駅の一つであった丸子地区の町おこしのために奔走を続け、柴山は20年間に計4,000万円を費やして『東海道五十三次』の版画すべてを収集し、丸子地区のイメージを高めた功績を残した。なお、柴山が収集した版画『東海道五十三次』は現在も丁子屋にて所蔵されている。 なお、鞠子のとろろ汁店としては丁子屋が有名だが、他にもとろろ汁店は数店ある。
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