松尾芭蕉の諧謔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/29 06:20 UTC 版)
斯波園女は最晩年の松尾芭蕉に師事したことがある蕉門の俳人だが、その芭蕉が元禄3年(1690年)に近江蕉門の俳人・智月尼を琵琶湖畔の膳所に訪ねた際、芭蕉は智月尼を少将に見立てて「己が音の少将は晩年この辺りの近くに隠棲していたそうだ」と二人で語り合ったことを一句に詠んでいる。出家後の少将は京都東山の法性寺跡に暮らしたことが知られているが、大津から逢坂関を通って山科に入り滑石越の間道から東山に入る最短路を歩いたとしても、膳所から東山へは少なくとも半日から丸一日はかかる距離があり、とてもこの辺りと呼べるような近さではない。そこにはこの前年に「奥の細道」の大紀行で諸国を歩き廻った芭蕉ならではの余人とは尺度が異なる地理感覚を読み取ることができるが、それをまた一句に詠んでしまうという芭蕉の諧謔性に富んだ一面も垣間見えて興味深い。いずれにしても、己が音の少将は江戸時代になっても折につけ俳人たちの話題となる存在であり続けていた。
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