松尾芭蕉の影響
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湯ヶ島へ発つ前の1926年(大正15年)の冬、基次郎は下宿に同居していた三好達治と共に、松尾芭蕉を研究していた。2人は注釈書を参考に芭蕉の『冬の日』抄、『曠野』抄を毎晩のように耽読していた。この時期、基次郎は以下のような俳句を詠んだ。 凩やいづこガラスの割るゝ音 それ以前の三高時代から、松尾芭蕉の紀行文は基次郎にとって座右の書であり、大学入学後の1926年(大正15年)9月中旬にも、友人の近藤直人と比叡山や琵琶湖に行って、芭蕉の『奥の細道』について語り合っていた。 基次郎は翌1927年(昭和2年)2月に『冬の日』の前篇を発表した後、友人・近藤直人への書簡で、〈私の云つてゐました象徴主義なるもの甚だ遅々ながら文中に発展してゐることを認めていただければ幸甚です〉と述べつつ、『青空』同人に新加入した北川冬彦と三好達治の詩を推奨し、『青空』同人の古いグループについては、〈今アナーキストかポルシェビストか、そんな岐路に立つてゐるやうに思はれます〉として、自分の目標を、〈資本主義的芸術の先端リヤリスチック シンボリズムの刃渡りをやります〉と語っていた。 そしてその後段で、松尾芭蕉の梅の句を引き、〈此度の冬の日の続きは冬が去つて春が来ようとし梅の花の匂のやうなものが街上で主人公をつかまへるところを書かうと思つてゐます〉と『冬の日』後篇の構想に触れて(実際には暗いトーンのまま終わっている)、芭蕉と並んで向井去来の梅の句も挙げながら、〈ナイーヴな、そして下手なユーモアでこれを詠まうとしてゐますが、僕はもう少し烈しくこれを書かうと思つてゐます。少くとも近代的に。どうか待つてゐて下さい〉と告げ、芭蕉や去来の精神の「近代的表現」を目指していたことが看取されている。
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