松尾糧食工業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/27 01:51 UTC 版)
家業を継いだものの、多額の借金を抱え経営は苦しい状況であった。たとえば1933年(昭和8年)広島商工会議所発行『商工人名録』には孝の名前は記載されていない。 新たな商売として、賀茂鶴酒造から米ぬかを調達し飼料として農家に売ったり、砕けた小米をのりに加工し京友禅業者に販売し始める。1937年(昭和12年)“松尾食糧工業所”を立ち上げる。太平洋戦争中は、胚芽を粉にしたものやさつまいもの澱粉粕に小米などを入れた団子などの“代用食”を軍需工場や各学校に収めていた。 1945年(昭和20年)7月召集、同年8月福岡県北九州に居た時に広島市に原子爆弾が投下される。当時の自宅は爆心地から約1.5kmにあった楠木町にあり、広島には妻と3人の息子を残して出征したが奇跡的に全員助かった。 復員して、戦後も続いた食糧難に対応するため、まだ死臭の漂う広島市内で、戦中時代に作っていた代用食や、新たに鉄道草(ヒメムカシヨモギ)の団子やキャラメルを作り始める。孝は戦中戦後の食糧難の中で「健康にいい栄養のあるお菓子をつくること」を志した。これが今日のカルビーの社名やかっぱえびせん誕生へとつながっていく。 1945年12月、宇品にあった旧宇品陸軍糧秣支廠跡地を買い取り事務所とした。ここがカルビー発祥の地である。1949年(昭和24年)株式に改組し“松尾糧食工業株式会社”と社名変更。この時代、岡山にカバヤ食品・山口にカンロと地方で飴屋が続々と登場したことに加え朝鮮特需の影響で販売競争は激化し、さらに当時の主要市場だった九州地方を台風被害が襲ったことから、1953年(昭和28年)秋に松尾糧食工業は不渡りを出し倒産してしまった。
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