はっとり‐とほう〔‐トハウ〕【服部土芳】
服部土芳
土芳の代表作
梅が香や砂利敷流す谷の奥(『猿蓑』)
棹鹿のかさなり臥る枯野かな(『猿蓑』)
おもしろう松笠もえよ薄月夜(『猿蓑』)
この比のおもはるゝ哉稲の秋(『猿蓑』)
梅が香や砂利しき流す谷の奥(『猿蓑』)
かげろふやほろほろ落る岸の砂(『猿蓑』)
荷鞍ふむ春のすゞめや縁の先(『猿蓑』)
むめちるや糸の光の日の匂ひ(『炭俵』)
近江路やすがひに立る鹿の長(『炭俵』)
鮎の子の心すさまじ瀧の音(『續猿蓑』)
黑ぼこの松のそだちやわか緑(『續猿蓑』)
鶯に橘見する羽ぶきかな(『續猿蓑』)
職人の帷子きたる夕すヾみ(『續猿蓑』)
明ぼのや稲づま戻る雲の端(『續猿蓑』)
冬梅のひとつふたつや鳥の聲(『續猿蓑』)
漸に寐所出來ぬ年の中(『續猿蓑』)
植竹に河風さむし道の端(『續猿蓑』)
月添ひてかなしさこぼる萩すすき
服部土芳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 04:29 UTC 版)
服部 土芳(はっとり とほう、明暦3年(1657年) - 享保15年1月18日(1730年3月6日))は江戸時代前期の俳人である。松尾芭蕉と同郷の後輩で、蕉門十哲の1人に加えられることもある。芭蕉晩年の俳論を整理した『三冊子』などの著書を残した。本名は保英、通称は半左衛門。号は芦馬・蓑虫庵・些中庵。
来歴
伊賀上野に生まれた。米問屋木津孫次郎保何の五男として生まれた後、藤堂藩士服部半左衛門の養嗣子となる[1]。幼いころに芭蕉に俳諧を学び、はじめ蘆馬(芦馬)と号した。1685年(貞享2年)、水口宿(滋賀県)で旅の途中の芭蕉と20年ぶりに再会し[1]、1688年(貞享5年)に藩を致仕し、訪れた芭蕉の「みのむしの音を聞にこよ草の庵」の句から蓑虫庵と呼ばれる。俳号も芦馬から土芳に改めた[1]。土芳を中心に伊賀蕉門は大きく発展した[1]。
編著書として、芭蕉の俳論を伝える『三冊子』、芭蕉の生涯全作品を集大成した『蕉翁句集』『蕉翁文集』を完成させた[1]。この他、『横日記』『蓑虫庵集』などの日記を残し、当時の俳諧についての価値の高い資料を残した。土芳の句には「棹鹿のかさなり臥る枯野かな」などが『猿蓑』に所収されている。
脚注
参考文献
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- 榎本好宏 『江戸期の俳人たち』飯塚書店、2008年。ISBN 4752220520。
外部リンク
服部土芳と同じ種類の言葉
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