服部土芳とは? わかりやすく解説

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はっとり‐とほう〔‐トハウ〕【服部土芳】

読み方:はっとりとほう

[1657〜1730]江戸前中期俳人伊賀上野の人。名は保英。通称、半左衛門別号蓑虫庵(みのむしあん)など。もと藤堂藩士。松尾芭蕉弟子で、伊賀蕉門中心人物俳論書「三冊子(さんぞうし)」を編んだほか、編著蓑虫庵集」「横日記」など。


服部土芳

はっとりとほう

明暦2~享保15年(1730)1月18日

服部半座衛門保英。伊賀藤堂家武士。『野ざらし紀行』の旅のおり、東上の途についた芭蕉追って水口まできて再会果たし蕉門に入る。この時、芭蕉は「命二つの中にいきたる桜かな」と感動的に詠んだ芭蕉ひたすら慕い元禄元年3月には、伊賀上野南郊草庵蓑虫庵」をひらいた。30歳若さ藤堂藩引退し以後俳諧一途生涯送った享保15年享年74歳一期として没。『三冊子』、『蕉翁文集』、『 蕉翁句集』などの著者として、師の記録後世に残すなど芭蕉亡き後伊賀蕉門第一人者になる。

土芳宛書簡(元禄7年9月23日)

土芳の代表作


服部土芳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 04:29 UTC 版)

土芳句碑「若菜塚」
(蓑虫庵・三重県伊賀市)

服部 土芳(はっとり とほう、明暦3年(1657年) - 享保15年1月18日1730年3月6日))は江戸時代前期の俳人である。松尾芭蕉と同郷の後輩で、蕉門十哲の1人に加えられることもある。芭蕉晩年の俳論を整理した『三冊子』などの著書を残した。本名は保英、通称は半左衛門。号は芦馬・蓑虫庵・些中庵。

来歴

伊賀上野に生まれた。米問屋木津孫次郎保何の五男として生まれた後、藤堂藩士服部半左衛門の養嗣子となる[1]。幼いころに芭蕉に俳諧を学び、はじめ蘆馬(芦馬)と号した。1685年貞享2年)、水口宿(滋賀県)で旅の途中の芭蕉と20年ぶりに再会し[1]1688年(貞享5年)に藩を致仕し、訪れた芭蕉の「みのむしの音を聞にこよ草の庵」の句から蓑虫庵と呼ばれる。俳号も芦馬から土芳に改めた[1]。土芳を中心に伊賀蕉門は大きく発展した[1]

編著書として、芭蕉の俳論を伝える『三冊子』、芭蕉の生涯全作品を集大成した『蕉翁句集』『蕉翁文集』を完成させた[1]。この他、『横日記』『蓑虫庵集』などの日記を残し、当時の俳諧についての価値の高い資料を残した。土芳の句には「棹鹿のかさなり臥る枯野かな」などが『猿蓑』に所収されている。

脚注

  1. ^ a b c d e 岡本勝, 雲英末雄編 『新版近世文学研究事典』おうふう、2006年2月、353頁。 

参考文献

外部リンク




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