しだ‐やば【志太野坡】
志太野坡
志太野坡
(寛文2年(1662.1.3)~元文5年(1740.1.3))
野坡の代表作
朝霜や師の脛おもふゆきのくれ(『笈の小文』出発時の芭蕉への想い)
寒きほど案じぬ夏の別れ哉(元禄元年5月11日芭蕉最後の江戸出立を見送って)
麦畑や出ぬけても猶麦の中(元禄7年5月8日芭蕉最後の江戸出立の折)
長松が親の名で来る御慶哉(『炭俵』)
みなみなに咲そろはねど梅の花(『炭俵』)
七種や粧ひしかけて切刻み(『炭俵』)
猫の恋初手から鳴て哀也(『炭俵』)
うぐひすや門はたまたま豆麩賣(『炭俵』)
五人ぶちとりてしだるゝ柳かな(『炭俵』)
はき掃除してから椿散にけり(『炭俵』)
祭まであそぶ日なくて花見哉(『炭俵』)
食の時みなあつまるや山ざくら(『炭俵』)
日半路をてられて來るや桃の花(『炭俵』)
法度場の垣より内はすみれ哉(『炭俵』)
雲霞どこまで行もおなじ事(『炭俵』)
衣がへ十日はやくば花ざかり(『炭俵』)
子規顔の出されぬ格子哉(『炭俵』)
麥畑や出ぬけても猶麥の中(『炭俵』)
さみだれに小鮒をにぎる子供哉(『炭俵』)
行雲をねてゐてみるや夏座敷(『炭俵』)
盆の月ねたかと門をたゝきけり(『炭俵』)
石臺を終にねこぎや唐がらし(『炭俵』)
蜂まきをとれば若衆ぞ大根引(『炭俵』)
人聲の夜半を過る寒さ哉(『炭俵』)
はつ雪にとなりを顔で教けり(『炭俵』)
餅つきや元服さする草履取(『炭俵』)
年のくれ互にこすき錢づかひ(『炭俵』)
この比の垣の結目やはつ時雨(『續猿蓑』)
手まはしに朝の間凉し夏念仏(『續猿蓑』)
金屏の松の古さよ冬篭り(『許六宛芭蕉書簡』)
志太野坡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/18 01:48 UTC 版)
志太 野坡(しだ やば、寛文2年1月3日(1662年2月21日) - 元文5年1月3日(1740年1月31日))は、江戸時代前期の俳諧師。志多・志田とも称すが、後に竹田氏を用いる。前号は野馬、別号として樗木社・樗子・紗方・紗帽・浅生・無名庵高津野々翁・照笛居士などと号す。蕉門十哲の1人とされ、「軽み」の俳風では随一ともいわれた。
経歴
寛文2年(1662年)、越前福井で斎藤庄三郎の子どもとして出生[1]。父に伴われて江戸に行き、越後屋の両替店の手代を勤める[1]。其角の教えを受けて俳諧をはじめたとされるが、野坡の作品は貞享4年(1687年)刊『続虚栗』に初出である[1]。その後、しばらく空白期間をおいて、元禄6年(1693年)に松尾芭蕉の指導を受け、元禄7年(1694年)6月、孤屋・利牛らと『すみだはら』を編集刊行[1]。松尾芭蕉の没後、元禄11年(1698年)から元禄14年(1701年)まで商用で長崎に滞在、やがて越後屋を退き、元禄15年から翌年にかけて本格的な筑紫行脚を開始[1]。長崎・田代・久留米・日田・博多などを旅行して、多くの弟子を獲得した。正徳4年(1714年)から正徳5年(1715年)には、森川許六と俳論書翰の応酬を行う(『許野消息』)[1]。享保10年(1726年)に浅生庵を新築する一方、蕉風を上方や九州に普及させるため、積極的に行脚を行った[1]。元文5年(1741年)正月、痰咳が原因で死亡[1]。
代表的な門人に後継者でもあり、保護者でもあった湖白亭浮雲、広島地方で活動した多賀庵風律がいる。湖白亭浮雲の妻は諸九尼と名乗り、『おくのほそ道』を追体験した「秋かぜの記」を著した。
俳風
「軽き事野坡に及ばず」(『旅寝論』)と評された、平明闊達な句作りを特徴とする。軽妙で都会的な人事趣味の句も得意だった。一方で、野坡の「かるみ」が卑俗に流れ、軽薄に堕する傾向もないではなかった[2]。
著作
編著
- 『すみだはら』
- 『万句四之富士』
- 『放生日』
- 『六行会』など
俳論
- 『許野消息』
- 『袖日記』
- 『俳諧二十一品』
- 『樗庵草結』
- 『俳諧秘伝語録』
発句集
- 『野坡吟草』
関連項目
脚注
志太野坡(しだ やば)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 09:17 UTC 版)
寛文2年(1662年) - 元文5年(1740年) 芭蕉の遺書を代筆。
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